2005年3月6日

「共に生きる」 第1コリント1:4〜9

 「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」

 当時、北と南、西と東の交易の拠点であったギリシャの都市コリントに使徒パウロは二回目の伝道旅行の時に立ち寄り、福音を伝えました。そして、教会が形作られました。しかし、コリントの教会は、さまざまな混乱に見舞われました。無秩序と化した教会の交わりに、パウロは愛を込めて叱責の言葉をコリントの教会に送りました。今日、私たちの教会は、もうそんな2000年前の教会の問題とは関係が無いと言い切れないところに時代を超えた人間の本質的な弱さを見ることができます。新約聖書で用いられる「交わり」という言葉はコイノニアというギリシャ語から訳された言葉ですが、それには一般的に言われる友好関係や血縁関係以上の深い意味が込められています。日本人は特に血縁関係を大切で一番深いつながりととらえている所があります。しかし、実際は切実でどうしようもない問題を抱えてしまうのも、血縁関係ならばこその話です。むしろ、他人との関係の方が楽であることが多いのがこの世です。しかし、コイノニアには血縁関係以上の深さと、この世の交わりにない、目的が存在します。それは、全ての人は神の家族となるために招かれているということです。先週は、一人の姉妹がバプテスマを受け、神の家族の一員となられました。それは、その人が何か急に偉くなったり、聖人君子になったり近寄りがたい人になったということではありません。むしろ、それとは逆に、自分の弱さを認め、罪人であることを知って、神の恵みとイエスさまの犠牲によって赦され、受け入れられたことを自覚した新しい人が生まれたということです。神の家族とは、赦された者たちが集められるところです。

 神の家族の交わりは、教会の中とは言え、色々な人たちが集まるところであることを知っています。苦手な人、性格が合わない人、さまざまです。でもどんな人もその交わりに招かれていることを知っています。神の家族の交わりは、そこに争いや裁き合いがあっても仲間に加わりません。むしろ、そのような交わりから身を引いて、神に聞きます。そして、交わりの回復を祈ります。神の家族の交わりは、裁くよりも赦す心を求めます。裁く私はあなたより多く赦されているからです。神の家族の交わりは、大切なことから目を離さず、小さないさかいや不都合は気にとめません。何と私たちは小さなことにこだわり、心をかたくなにし、大事なことを見逃していることでしょう。神の家族の交わりは、たとえ人間関係で傷ついても、祈って、悔い改めて、交わりに帰っていく勇気を与えます。そして、陰口や悪口を、執り成しの祈りで受け止めます。イエスさまが見せてくださった、そんな交わりに私たちは招かれています。