2005年2月27日

「唯一の基準」 テモテへの手紙二 3:10〜17

 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」

 当時、小アジアのエペソにいたと思われる若い伝道者テモテに宛てて書かれた書簡と言われるこの手紙は、ローマにて投獄されていたパウロによって書かれたと言われています。4章では、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」と、その死を予感させる緊張感をもって、パウロは遺言のように福音伝道の使命をテモテに託したのです。使徒パウロはその後紀元64年〜67年頃、皇帝ネロの在位中にローマにて殉教したと伝えられています。パウロは、生きておられる真の神とその福音を伝えるためにありとあらゆる迫害や困難に直面しました。しかし、彼はそれに耐え戦い抜いたと言い切るのです。なぜそれができたのか?それは、「主がそのすべてからわたしを救い出してくださった。」からだと言うのです。一部の困難ではなくすべての困難から神はパウロを救い出してくださったのです。その信仰を支えたのは、聖書の言葉と聖書が語る救いの約束への確信でした。

 パウロのこの手紙は、困難な時代に向かって生きる全ての人々に対して書かれたものだということができます。世の中は目まぐるしく移り変わり、あらゆるものが変化します。また、昔はなかったような出来事に遭遇し、判断にとまどう時代にもなってしまいました。それに対応し、耐えるために私たちは制度や法律、常識や概念を変えて生きていかなければなりません。いつも物事を相対的に見、考えて調整していかなければ社会が成り立たなくなるのです。しかし、聖書の言葉はいつの時代にも、どんな状況でも変わることなく、わたしたちの生活に対する基準を与え続けています。パウロによれば、それは「聖書は神の霊の導きの下によって書かれた」もので人間の都合によって書かれたものではないからです。聖書は神と人との平和、人と人との平和をもたらし、和解と秩序をもたらすために与えられた神の言葉です。そして、人の全ての罪を贖うために与えられたみ子、イエスさまの福音を告げ知らせるために書かれた神よりの私信の手紙です。それは、人に与えられた霊により、信仰によって読まなければ決して理解することはできません。ダビデというイスラエルの二代目の王は詩篇16篇でこう歌いました。「測り縄は麗しい地を示しわたしは輝かしい嗣業を受けました。わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励ましわたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」測り縄とは聖書の言葉、神から与えられた基準のことです。私達がもし、聖書の言葉を神の言葉と信じ、生活の中心に置き、心の基準とするなら、私達はどんな時にも状況にも揺らぐ必要はなく、憩うことができるのです。