2005年2月20日

「あなたの隣人」 ルカ福音書10:25〜37

 「良きサマリア人」のたとえは、聖書の中で一番美しいお話だと言われています。しかし、一方では旅人が追いはぎに会い、瀕死の状態に陥るという残酷なお話でもあります。イエス様は律法学者の質問に答えて、永遠の命を受けるには律法にあるように「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する。また、隣人を自分のように愛する」ことの大切さを教えられました。しかし、イエス様の律法学者に対する要求はその教えを超えて、実際に隣人になることでした。実は律法は、神を愛することのみならず、自分を愛すること、隣人を愛することを教えているのです。そのままの自分を愛し、その存在そのものを愛することができて初めて隣人を愛することにつながるのです。たとえ話の中では、旅人がエリコに向かう途中、追いはぎに襲われ、半殺しにされ捨てられてしまいます。そこに祭司、そしてレビ人が通りかかりますが二人とも見て見ぬふりをして通り過ぎてしまいます。しかし、当時イスラエル人とは仲が悪かったサマリア人がそこを通りかかりました。「ところが」という言葉をもって、このお話は意外な展開を見せます。サマリア人は同胞でもない倒れ傷ついた人を「可愛そうに思って」介抱をしてあげます。「同情」という言葉には情けをかける側に優位性を感じますが、「可愛そうに思う」というのは、単なる同情ではなく、相手の立場に立って助け共感することです。彼は近づいて傷にオリーブ油とぶどう酒を塗り、家畜に乗せて宿屋に運び、助けたのです。愛というのは知識ではなく、実践し表していくのが本当ではないでしょうか?共に生きようとする燃えるような心、そこで命と命とが触れ合って愛が輝き始めるのだと思います。人と人との出会いは決して偶然ではありません。人を助けることは、自分も助けられることでもあります。人はまず自分自身が神から愛されていることを知らなければ他者を愛することはできません。そこに人間関係の輝きがあります。

 私は「小さないのち守る会」を始めるとき、神より迫られ、愛の実践をする人となるよう求められました。今日本では、一人の赤ちゃんが生まれるとき、3〜4人の赤ちゃんが中絶によって葬られています。私は、そんな小さないのちを守る働きに私は召されたと信じています。私たち生きている者たちはある意味、中絶の生き残りと言うことができます。日本では、主な中絶の理由は経済的な理由によると言うのです。そして、正当に多くの小さな命を葬っているのです。しかし、私たちは中絶を非難したり裁いたりしているのではありません。命を大切にし、助けることを願っているのです。そして、中絶に苦しむ人の「許し」を願っているのです。命は神の存在無しにありません。その命に触れ合うことにより、助け合うことにより、愛の実践により命の大切さを本当に知るようになるのです。  

 「誰が隣人になったか?」とのイエス様の問いに私たちも答える者となり、「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われるイエス様の言葉に従う者となっていきたいと思います。