2005年2月6日

「勘ちがい」 ローマの信徒への手紙 6:1〜14

 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 使徒パウロは、ローマ書において画期的な救いの原理を確立しました。それは、他の全ての手紙に共通する原理です。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」掟や戒めを守ることによって与えられる救いは私たちに本来の救いをもたらすことはできないのです。そして、律法によっては人に罪の自覚しか生じさせないのです(20節)。罪から離れるために私たちは自分の力による努力を惜しまず、罪を犯してしまった時には、悔い改めと神への立ち返りのためにそこから抜け出そうと努力します。しかし、私たちの罪との戦いはいつも敗北してしまします。悪い習慣や癖、変えなければならない性質などに対し、私たちは何と無力で何度も同じことを繰り返し、失望を味わっていることでしょう。使徒パウロも人間の力による罪との戦いが無力であることを7章にて「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」と告白します。

 しかし、パウロは知っているのです。主イエスにある救いの法則は私たちに、行いによらない信仰と約束による罪への勝利を与えていることを。罪との戦いとその勝利を自分の力で得ようとしても、それは救いを自分自身の良い行いによって得ようとする的外れなことになってしまいます。それでは、パウロは何の力によって罪に打ち勝つよう私たちに教えているのでしょうか?それは、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる。」という事実に立つことです。キリスト・イエスにある人は皆、もう罪と罪の裁きと何の関係もなくなっているのです。その事実を信じない人は、繰り返し訪れる罪の誘惑と自らの力で戦わなければなりません。しかし、イエスさまの十字架に結ばれて罪に死んだことを信じる者は、イエスさまの復活に与る者となるのです。主はイザヤを通して語られました。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐいあなたの罪を思い出さないことにする。」(43:25)主の恵みによる救いは、私たちに罪の赦しへの喜びと、無条件の愛への感謝をもたらし、罪の誘惑への戦いの本当の力を与えてくれるのです。