2005年1月16日

「何のために生きるのか」 コリントの信徒への手紙二 4:16〜18

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 21世紀は災害の世紀になるのではないかと巷では噂されています。確かに人間を中心に見てみれば、最近起こっている多くの自然災害は異常気象によってもたらされたやっかいなものかもしれません。しかし、その原因は地球の温暖化、人間の地球上での営みがそれらの災害の原因になっているのではないかとも考えられています。もしそうであれば、防げた災害であったかもしれません。多くの犠牲となった方々、そして、今もその災害から復興するために苦闘しておられる人々を通して、私たちは理屈ではない圧倒的な自然の力を見せ付けられます。そのような中、私は、理不尽とも思える大規模な災害を受けて、考えさせられることが多くあります。

 第一に、死は今日や明日といった時間の延長線上に存在するのではなく、今、目の前に、そしていつも存在するということです。目に見えるものによって生きている私達はそのことを忘れて生きています。人は悲しいことに、愛する者の死に直面して初めてその関係の大切さと生きることの意味とを知ることがあります。

 第二に、地球という私達の住む世界は、ディズニーランドや遊園地ではないということです。聖書によれば、最初の人、アダムとエバは神に逆らい罪を犯し、楽園を追放されたと言います。それ以来、人は永遠に生きる者から限りある命にある者、自らの手で働き生きていく者となったと言います。私たちの目に見える世界は、生きていくための戦いの場となりました。しかし、神はそれでもこの世界を人が楽しみ、この世界から神のご存在を知ることができるよう素晴らしい世界として与えておられます。

 第三に、人間は神が創られた世界の一部に過ぎないということです。人は自然の営みや現象の一部であるということです。このことは、私たちに畏れるべき方を畏れるへりくだった心を求めます。人間は自然の前に無力なのではなく、それをお創りになった方の前に無力な存在であることを知らなければなりません。

 そして、第4に、自然災害は神の裁きや罰ではないということです。創世記によれば、ノアの時代の大洪水のように、人の罪は神の裁きを招きました。しかし、神はノアの信仰ゆえに二度と災害による裁きを行うことがないと約束されました。そして、イエスさまが十字架に架かり人間の全ての罪のために死んでくださったことは、神の、人間に対する思いを表しました。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前達は立ち帰って生きよ」と主は言われる。(エゼキエル18:32)、また、悪人の死さえも喜ばない(同23節)と神は言われます。ならば、神は私たちが災害で滅ぶことを喜んでおられるでしょうか。いや、それよりも神は私たちに、死をも支配しておられる絶対者なる方を認め、救いの希望に生きることを望んでおられるのです。創造主なる神を知らず、認めないで生きることに人生の意味や目的を見つけることは不可能です。同じく、人は神の憐れみと恵みによらなければ、自分の力によって自分自身を救うことなどできないのです。目に見えぬ神を信頼し、永遠の命に与る者となっていきたいと願っています。