2005年1月9日

「共に歩む」 ヨハネによる手紙一 1:3〜4

 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」

 いつの時代、どこに於いても、難しいと言われるのは人間関係です。人と人との間にあって大切なのは人とのコミュニケーションだと言われます。辞書によればそれは一般的に、情報を知らせ、伝えることであり、さまざまなものを分かち合い共有することと言えます。また、意思の疎通を計り自分の思いを伝え、相手の気持ちを分かることだとも言えます。方や信仰の世界でも人間関係の難しさは少なからずあるものです。聖書によれば、信仰を持った者同士のコミュニケーションのことをギリシャ語でコイノーニアと表現します。英語でfellowshipと訳されるこの言葉は「交わり」という意味で使われ、互いに深いつながりを持ち、分かち合うことを言います。しかし、この言葉はただ単に人と人との交わりを指して言っているのではなく、神さまとの関係を土台とした人格の交流について語っています。人は沢山の人と一緒に何かをすることができます。しかし、個人的で親密な関係を全ての人と持つことはできません。それと同じように神さまとの関係も、まず個人的な交わりを通して深められ、人との交流も少人数の心通い合う関係の中に育てられていきます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とイエスさまがおっしゃったように、上辺だけでない心通い合う交流の中にイエスさまも共にいてくださると約束して下さっているのです。

 神さまを中心に置いた交流関係には、正直さが与えられます。自分の弱さを認め、内なる思いをさらけ出すことができるようになります。なぜなら、神がパウロを通して語られたように、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(2コリ12:9)と言えるからです。また、心の中の隠された罪を告白する勇気が与えられます。互いに正直に告白するなら、心が癒され、開放されていきます。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1:9) 人は、自分の内面的なことについて正直になる時、本当の交流が生まれ、本当の交流を通して神との交わりを知るようになります。そして、人は相互に依存していかなければ生きていけない存在であること、神に依存して生きている存在であることを知るようになります。神を中心とした交わりとは、気の合う者同士の集まりでも、趣味や考え方が同じというのでもなく、主を信じるがゆえに、主によって集められた者たちの交わりです。そこでは、一人が苦しめば、すべての交わりが共に苦しみ、一人の人が尊ばれれば、すべての交わりが共に喜びます。私たちの教会は、信じる者たちがまず神との深い交わりを持ち、正直で素直な心で多くの人々と分かち合い、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く教会となり、人々を神さまとの交わりに結んでいく働きをしていきたいものです。