2005年1月2日

「恵みによって」 詩篇127:1、2

 【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ町を守る人が目覚めているのもむなしい。 朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人よそれは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

 詩篇120篇から134篇までの15の歌は都上りの歌として知られています。バビロニヤの支配から解放され、信仰の自由を与えられたイスラエルの民がつくづく自らの神を礼拝することのできる喜びを歌い、その神の祝福こそが民の生活の基本であることを告白する歌です。そしてこれらの歌は、ユダヤの祭りのたびに都に訪れた巡礼の人々が神殿にある15の階段を上るごとに1篇づつ歌った歌だという説があります。主なる神から離れ、自分の力に頼ってしまったイスラエルの民は異教徒の手に落ち、苦しみ、民族の存亡の危機に見舞われる経験をしてきました。しかし、ペルシャ王、キュロス王による一時的な解放と自由を得た後、彼らは今まで忘れていた神こそが本来の解放者、国を再建させてくださる方であることを知るのでした。

 新しい年、私たちが立ち帰らなければならない所は礼拝の場です。私たちに救いと恵みとを賜う神との交わりの場、礼拝こそが私たちの全生活の基盤となります。暮に風邪をひいてしまった私は、元旦の朝、寝床から起きるとき、祈りました。「神さま、どうか新年の礼拝にあたり、あなたの言葉を語る私の風邪を今すぐにでも治して下さい。」すると、私の心に湧いてきた思いは、病気の癒しやメッセージのことよりも神さまとの対話の方が大切ということでした。神さまは、今まで以上に私が神さまに聞く耳をもち、神さまとの交わりの時を持つことを求めておられるような気がしました。詩篇の歌人は歌います。「主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。」と。人がどんなに素晴らしい働きや行いをしたとしても、神と無関係に成したことは空しいと言うのです。逆に言うなら、どんなに小さく、この世では意味の無いことのように見えても、神を中心にして成されたことは決して私たちに空しく帰ってこないということです。

 使徒パウロは、空しさから解放され、満たされる人生を送るためには神の助けを素直に受けることを勧めています。「自然の(生まれながらの)人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(1コリント2:14) 人は、神の恵みによって罪赦され、救われ、生かされるという法則は、人に生きる希望と目的とを与えてくれます。しかし、その法則はこの世の法則とは相容れないものなのです。私には、頭の上がらない人がいます。あるいは一目置く人がいます。自分より苦労した人や立派な行いをしている人、自分にはとてもできないような厳しい修行を積んだ人などにどうも頭が上がりません。しかし、神の目は人の行いの良し悪しや量の上にではなく、真の神に対する人の姿勢の上に、神を中心として生きる人の上に注がれます。私たちの人生の価値は、自分が何をどれだけ成したかではなく、神を中心とし神の恵みによって生きたかどうかで計られるのではないでしょうか?新しい年、神の恵みが私たちの生活の中心となりますようお祈りします。