2004年12月5日

「求める者」 マルコによる福音書 5:25〜34

 私たちは、日々の生活の中で実に様々なこと、ものを求めて生きています。あれが欲しいこれが欲しい、あれがしたいこれがしたい、健康になりたい、おいしいものが食べたい。とにかく、求めることはいくらでもあります。しかし、私たちクリスチャンや、そうでなくても聖書を知っている人は、一方で、ある程度の自制も働きます。それは聖書に多くの戒めの言葉が出てくるからです。「肉の欲」「情欲」などの言葉は、読んでいてドキッとさせられます。

 自制は悪いことではありません。むしろ良いことです。しかし、あまりにこの自制が進むと、逆に神様から離れて行ってしまうこともあります。

 二羽1アサリオンで売られている雀さえも、神様の許しなしには地に落ちることがない。とイエス様は言われました。この世界はすべて神様が決めたとおりになっているという意味です。そうなんです。今自分に与えられている現実というものは、神様が決められたとおりにしかなっていないのです。ですから、神様を信じている人、信仰を持っているという人は、今自分が置かれている現状というものは認めなければならないものなのです。すべてを受け入れ、不平を言わずに生きていく、多くを求めず自制して生きていく。それも立派な信仰のように思えます。

 しかし、今日の聖書の箇所に出てくる12年間病気が治らずに苦しんでいた女性は違いました。彼女は、イエス様に求めたのです。強く、切に求めたのです。そして、その信仰の力で、なんとイエス様に奇蹟を起こさせてしまったのです。病気を癒させてしまったのです。彼女が諦めて、これが神様の御心だと自制してしまっていたら、おそらく彼女は癒されなかったでしょう。この病気の女性の奇蹟を見て、「求める」ということの大切さを改めて思い知らされるのです。

 ルカによる福音書11章に、真夜中に友達の家にパンをもらいに行くたとえ話をイエス様がされるところがあります。一度は断られますが、イエス様はこう続けます。

「しかし、言っておく。その人は友達だからということで起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう」

 しつように頼め。そうイエス様は言われます。求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい。それを積極的にしつこくやりなさいとイエス様は言われるのです。そうすれば、神様はその願い、その求めの中から、必要なものはすべて与えると言われるのです。

 フィリピの信徒への手紙にもこう書かれています。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」

 求める者には、人知を超えた答えが、神様から与えられるのだと言います。

 私たちが神様に求めること。それはどんな小さなことでも、どんな大きなことでもいいと思います。こんなことは祈ってもどうせ無理だろう、と思ったり、これは自分の欲から出ることだから、と自制したりするのではなく、まず自分の求めることを正直に神様に打ち明け、強く、しつように祈ってみることが大切なのです。

神様は人間に何かすること、何かを捧げることを求めておられる方ではありません。しかし、たったひとつのことを強く求めておられます。それは、神を神と知ること、それだけです。神により頼むことをせず、自分で自制してしまう人よりも、何でもかんでも自分に祈って求めてくる者、そういう人の方を神様は間違いなく喜ばれます。

もうすぐクリスマスです。イスラエルの民が切に求めていたメシア、キリストが与えられた日です。しかし、それはイスラエル人の求めをはるかに超えた、まさに人知を超えた恵みとなったのです。イスラエル人だけでなく、全世界の人々を救う恵みとなりました。

私たちも、どんなことでも、神様に強く、しつように求めて行きたいと思います。神様に不可能はないのですから。