2004年11月28日

「愛しい人へ」 箴言3:21〜26

 わが子よ、力と慎重さを保って見失うことのないようにせよ。そうすれば、あなたは魂に命を得首には優雅な飾りを得るであろう。あなたは確かな道を行き足はつまずくことがない。横たわるとき、恐れることはなく横たわれば、快い眠りが訪れる。突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅におびえてはならない。主があなたの傍らにいまし足が罠にかからないように守ってくださる。

 本日の礼拝は召天者記念礼拝として守ります。そして、召天者のご家族と共に主なる神さまが私たちに与えてくださる命の尊さと、日々の生活と交わりとがどれ程大切なものであるかを考える機会になればと思います。誰にとっても連れ合いを、家族を、友を失うということは悲しく辛いことです。それは、クリスチャンであろうとなかろうと変わりはしません。しかし、だからこそ私たちはその死の悲しみを越えて人を生かすことのできる福音の力を信じ、同じ悲しみや寂しさを分かち合う人々に伝えていく責任があるのだと思うのです。宗教によっては、死者に対して供養を営みます。人は自然に、亡くなった方のために何かをして上げなければ済まない気持ちで一杯になることがあります。死とは理解できないものであり、怖いものでもあります。死後の世界がどんなものなのか、私たちはそれぞれが勝手に想像するしかありません。だからこそ、別れの辛さ以上に亡くなった方のために何かをせずにはおられないのが人情なのだと思います。
 
 しかし、私たちクリスチャンは死者の供養をすることはありません。何故なら私たちは「死」の前には無力だからです。人は自分の救いのために何もすることができないのです。他者の救いのためなら、尚更のことです。いや、むしろその方が幸いなのです。何故なら、私たちが死を受け入れ、死に意味を見出すために必要なことは創り主を信頼することだけなのです。他にすることは何もないのです。人が死に対して無力なことは、人の生涯が無に等しいこととは違います。むしろ、死さえも支配しておられる神のみ手にあっては、人生に於いて無意味な出来事は一つも無いということです。「あなたがたにはこの世にあっては悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」と言って下さる主を仰ぐことしか私たちが死の前にできることはないのです。

 星野富弘さんの詩画集の中に「一日は白い紙、消えないインクで文字を書く、あせない絵の具で色をぬる。太く、細く、時にはふるえながら、一日に一枚、神様がめくる白い紙に今日という日を綴る。」という詩があります。命が、そして一日一日が、人生そのものが、神より与えられる賜物と私たちが信じることができる時、死は私たちを分かち、絶望と悲しみだけをもたらすものではないことを知るのです。詩篇の作者が謳うように、主が死の支配者であられることから目を離さぬようにする時、私たちは自分勝手に死後の世界のことを想像し、誰が天国に行き、誰が行けないなどという空しい議論をすることは必要ないのです。ただ、私たちが賜っているのは、主イエスさまが私たちの命も死も、十字架と復活の福音の力によって守ってくださっているという事実のみなのです。死の前に無力な、今を生きる私たちにとって最も大切なことは、神への信頼とその約束です。召された多くの愛する人々を主のみ手に委ね、生かされてある残された者たちの上に慰めと、福音のみ業あらんことをお祈りいたします。