2004年11月21日

「神に免じて」 使徒言行録11:1〜18

 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。

 信仰の人、アブラハムから始まった人類の魂の救済計画が、イエス・キリストの到来により、アブラハムから出た一つの民族に留まらず、異邦人にも及ぶという出来事が使徒言行録の10章より記録されています。イエスさまとイエスさまの十字架による救いを信じたエルサレムのイスラエル人たちは聖霊を注がれ、大胆に死をも恐れず福音を伝え始めていました。しかし、使徒のリーダーであったペトロでさえ福音はイスラエル民族だけのためのものだと信じていました。一方、クリスチャンをユダヤ教の異端とし、迫害に燃えていたサウロ(後のパウロ)はダマスコに上る途中、イエスの霊に遭遇し、回心し、ヨーロッパに福音を伝え、異邦人を主なる神に立ち返らせる大伝道者と変えられていきました。保守的なユダヤ主義のクリスチャンに、当時交流をもってはいけなかった異邦人との関係を指摘されたペトロは、異邦人の間に起こった出来事の次第を説明し始めました。

 人は、神のご計画の全てを知ることはできません。しかし、神は私たちの弱さを知っておられる方です。クリスチャンであっても人に対して偏見を持ったり差別したりすることがありますが、神は人を偏り見ない方です。私たちは時々、人の外見や行動を見て、その人が救われるか否かという大それた判断を心の内でしてしまうことがあります。神は、イエスさまの十字架によって全ての人間が清められる存在として下さいました。福音は全ての人にもたらされる神の恵みです。同じように、福音を宣ベ伝えるために私たちが祈って一致して立てていく計画には主の導きがあります。それは、手段や方法による一致ではなく、目的による一致によります。目的とは、福音を人々に告げ知らせ、神の名があがめられ、一人でも多くの人々が救われることです。伝道の方法、手段、そのプロセスと、この世の方法を用いていく以上、様々な意見や考え方があり、一つのものとなっていくことは難しいことです。

 しかし、私達の一致する場所は十字架と復活の主の元です。相容れない考えや思いの中で私たちに求められているものは、「神に免じて」「イエスさまの十字架に免じて」人の思いを捨てて福音のために祈りにおいて一致することです。相容れない救いに対する考え方を持ったユダヤ主義のクリスチャンに向かって、ペトロは事の次第を語りました。それは、人による出来事ではなく、神によって導びかれた出来事でした。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」(フィリピ2:13,14) その言葉を信じて従って参りたいと思います。