2004年11月14日

「あなたの目線」 フィリピの信徒への手紙4:4〜9

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」

 喜びの手紙と呼ばれるフィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが牢獄の中にあったときに書かれたものだと言われています。牢獄のパウロを励ますために贈られたプレゼントに対するお礼状ともとれるこの手紙には、パウロのフィリピの教会への感謝と励ましと、間違った教えに翻弄されていた教会への配慮が満ちています。キリストが、神の身分を捨てて、人々の救いのために降りて来てくださったことに学び、フィリピの人たちが謙遜を身に付けることをパウロは願ったのでした。多くのユダヤ主義者たち、伝統を守ることや、行いによる救いを奉じるもの達の目線は、イエス様の恵みにある救いには向けられていませんでした。

 私は、高校生の時、授業の一環として女子体操の平均台での演技を体験させられました。平均台は長さ5m、高さ70cm〜120cm、幅は何と10cmしかありません。そこで、私たち男子学生たちは、練習用に床に貼られた10cm幅のテープの上で見事ジャンプもできましたが、実際平均台に乗ると、端から端まで歩くだけで精一杯でした。わずか数十センチ高くなっただけで、私たちの目線は10cm幅の道よりも両脇に見える床に奪われ、足がすくんでしまったのです。同じように私たちが生きて行く価値を、神の恵みに置いて生きて行こうとすると、この世の常識や習慣、価値観が私たちの心の目をまどわし、歩む足をすくませてしまうことがあります。道徳を守り、良い行いをすることによって救われたのではなく、人は神の恵みにより、イエス・キリストの罪の贖いを信じる信仰によって救われたにもかかわらず、良い行い、人間の力に頼ることに重きを置いてしまうのです。G・Mullerという人が「人間の力でできる領域では、信仰が働く余地はありません。人間的に可能なことの中には、神様の栄光は輝きません。人間の力が尽きたところから、信仰が働き始めます。」と言っていますが、正に、信仰の原点は神の恵みにあり、それを土台とした感謝と喜びから、良き働き、生きた働きが始まるのです。

 「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」とのパウロの言葉は、一般的な気高い倫理観を身につけなさいと言っているのではなく、それらの徳と呼ばれるものの中に神の謙遜、神への感謝と、恵みとして与えられる喜びとを見出し、実行しなさいと勧めているのです。そうでなければ私たちの目は本来の道から逸れて別の目的とその達成へと向かっていくのです。女子体操選手が言っていました。「良く練習し調子がいいときは、台の上だけに集中でき、たった10cm幅の台が何十センチにも広く見えるのです。」