2004年11月7日

「原点に返って」コリントの信徒への手紙U 12:1〜10

 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 上の言葉は、若いとき、キリストを異端者とし、クリスチャンを迫害していたにもかかわらず、復活後のキリストとの出会いにより回心し、キリストの福音の大伝道者となった使徒パウロの言葉です。神は、彼を生きたまま天国に招き、言い表し得ない体験をさせてくださったとパウロは言います。その、とんでもない体験は普通の人間にとっては自らを誇るに十分な体験でした。しかし、神は彼に思い上がらないようにと一つの棘を与えられました。現在でもその棘が病であったのか、また、障害であったかは分かりませんが、一つ言えることは、彼はその棘を取り去ってくださるようにと3度も祈ったということです。彼が言う3度とは回数を意味するのではなく、祈り得る全ての思いを込めて祈り尽くしたということです。しかし、神の答えは「恵みは十分である」ということでした。曽野綾子さんの〔私を変えた聖書の言葉〕という本の中で、弱さについて語るところがあります。「何より重大なのは、神の前にある時の人間の非力を、骨身にしみて思うことである。そして、この無力さの認識は、おもしろいことに、人間を絶望させなければ、自暴自棄にもしなければ、心理的に締め上げもしない。世の中には自分に絶望している人がいるが、その無力感こそが人間を解放するのである。信じがたいことだが、事実である。」

 パウロにとっての願いとは、自分のために体の不都合を取り除いていただくことではなく、福音を伝えるために障害となるものを取り除いてもらいたかったのです。しかし、彼に与えられた答えは、棘を持ったまま生きることでした。そして、弱さの中に働いてくださる神の力を知ることでした。パウロは言います。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。」(ローマ6:8-9) 自分の力に頼り、神の力など必要ないと思う時、人は強そうに見えて実は弱いのです。むしろ、私たちが自らの弱さを告白し、キリストの十字架とともに自我に死ぬ時、私たちは神の力の中にあることを知るのです。パウロ自身が言っています。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19,20)

 人は、自分の弱さを恥じます。人と比べて劣っていると感じるからです。人から強さを求められ、それに応えることができないと感じるからです。しかし、神の目にはむしろ、自分自身の弱さを認め、神を求める人が心に適っているのです。前向きに、積極志向で生きることは大切なこと、立派なことです。しかし、その原点が神によってではなく、自分の力や努力に支えられているものならそれには限界があります。弱さの中に現される神の力、それは、神さま向きに修正された心の中に発揮される力なのです。