2004年10月31日

「豊な者」 イザヤ書55:8,9

 イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 この世は、豊な人と貧しい人、そしてその中間を生きている人々で構成されていると私たちは漠然と感じています。R・ウォーレン牧師はその著書の中で、この世界の人々の生き方について三つの表現を用いてコメントしています。1.多くの人は怒りと憤りに駆り立てられて生きている。2.多くの人は物質主義に駆り立てられて生きている。3.多くの人は受け入れられたいという必要に駆り立てられて生きている。彼によれば、目的の無い人生は、人をあらぬ方向に駆り立て、実りのない空しい人生へと導くのだと言います。確かに私たちは平和で豊かで住みよい社会に住んでいると考えているかもしれません。しかし、造り主なる神を知らず、その神のご計画を知らずに生きていく時、私たちの魂の底には満たされず飢え乾く貧しい思いが積み重なっていくのではないでしょうか?

 自分を中心とし、自分の考え、力、方法によって人生の計画を立て、その計画がうまく行き、物質的、経済的、人間関係の上でもうまく行ったとしても、自分のために積んだ努力や苦労は果たして豊かな魂の実り(救い)をもたらしてくれるでしょうか?イザヤは語りました。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」この言葉は、人に豊かな人生を与える秘訣を物語っています。それは、人のどんな素晴らしい計画によっても成し遂げることのできない豊かな人生が、神の手によって用意されているという知らせです。その、神の思いとは、人の魂が救われることです。人間の努力や行いによってもたらされる魂の救いではなく、神のご計画による人類の救いのことです。

 使徒パウロはひとり子イエスを通して神のなさった救いのわざをこう表現しました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(2コリント8:9) イエスさまは私たちの罪を贖うために自らの命を捨て、十字架に死んで下さいました。人が、自分の罪とそれを贖ってくださったイエスさまの愛を本当に自覚できるなら、人は人の前に心の上で、物質欲の中で、貧しくなり、へりくだり、自分と自分の持ち物を捧げていくことのできる最も豊かな者とされていくのではないでしょうか?