2004年10月17日

「私たちは期待します」 ヨハネによる福音書9:1〜3

 みなさん良くご存知のベートーベンは、途中から耳に障害が起こり、最終的にはほとんど聞こえなくなってしまいました。ピアノを歯で噛んで、骨から音を感じ取ったこともあったという話さえあります。そのような障害を乗り越えてあのような素晴らしい作品を作り上げました。

 ヨハネ9.1〜3に、生まれつき目に障害のある人のことが書いていあります。聖書には、「神の業がこの人に現れるためである」と記されています。

 私は養護学校に勤めていますが、自傷を行う生徒を見ている時が一番辛いのです。自らを傷つける生徒を見ながら「神様、何でこの生徒はこんなことをしなくてはならないのですか?」と思わずつぶやいてしまうことがあります。

 小田先生はヘルニアで入院され、カテーテルの手術を受け、今度は目の問題で入院されました。小田先生を必要としている人はたくさんいます。教会堂の建築、ゴスペルの集会と、長期的にも短期的にも私たちは目的を持ち、牧会者としての小田先生の働きを必要としているのです。そんな時に「なぜ・・・」と、私たちはつぶやきたくなってしまいます。

 しかし、聖書は回りくどい説明や言い訳など一切せず、明快に答えています。「神の業がこの人に現れるためである」
 私たちにとって一番大切なものとは、何でしょう。マタイ16.26には「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか」と記されています。

 私は障害のある生徒と活動しながらしばしば思わされます。健常者と呼ばれる私たちは、いかに「ずるく、汚く、醜い」かと。それに比べて、彼らは私たちと違って、もうすでに天国にいる。と、そう思わされるのです。

 私たちは今、嵐の中にいます。嵐の中にいると、ただ、このひどい嵐が収まって欲しいと願います。じとじとした雨が降っていれば、とにかくそれがやんで欲しいと願います。どんより曇った空は、すっきりと快晴になって欲しいと願うのです。

 しかし、神様の言葉は明快で、どんな困難があっても「神の業がこの人に現れるためである」と答えています。

 ベートーベンは聴覚の障害を持ちましたが、そのために彼は世界中の多くの人の胸を打ち、新しい一歩を踏み出す、そうした決断を与えてくれる力ある音楽を作りました。

 私たちには耐えきれないようにみえる嵐でも、「神の業があらわれる」と、答えは明快で、希望に溢れたものなのです。
 今続く嵐の中にあって、その向こうには、燦然と輝く太陽があることを確信して、今この時をも感謝して歩もうではありませんか。神様は私たちにきっと素晴らしいことを用意してくださっているのです。そして、そのことはすでに約束されているのです。