2004年9月19日

「復活の主に出合う」 ルカによる福音書24:13〜27
       
 イエス様は何も抵抗することなく十字架上で死なれてしまいました。二人の弟子はそんなイエス様に失望し、もはやエルサレムに残っていてもしょうがないと思い,田舎のエマオに帰って行きました。またイエス様に失望したのはこの二人の弟子だけではなく、多くの弟子たちがイエス様に失望したのです。それは「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」21節  と告白したように、いつかイエス様がイスラエルからローマ軍を追い出すために立ち上がってくれるという希望を多くの弟子たちが抱いていたのです。故にイエス様の死は弟子たちにとって希望から失望へとなってしまったのです。悲しいかなイエス様の十字架が私たちのためになどとは誰も思わなかったのです。

 このようにイエス様の思いと弟子たちの思いは一致しませんでした。それと同じように私たちの願いと神様の思いが違っていることが多いのです。ヨハネ福音書にこのような箇所があります。イエス様が弟子たちに「私を知っているなら、私の父をも知ることになる。」それを聞いた弟子のフィリポは「主よ私に御父をお示し下さい、そうすれば満足できます。」 イエス様は「フィリポよこんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていない。」14:7 と仰せになります。しるしを見なければ信じられない、また満足できない信仰、私たちもイエス様に「こうして下さい」 「ああして下さい」そうすれば満足できます。もっとあなたを確信することができますと言って、神の御心を願うよりも、自分の思いを優先させてしまう自己満足的な信仰なのかも知れません。この自己満足的な信仰は私たちを希望から失望へと突き落としてしまうのです。

 聖書は契約の書であり素晴らしい約束が書かれております。その約束を信じていくところに私たちの信仰があるのです。イエス様が全てであり、そこに自分を委ねていく、そこで初めて復活の主に出合うことができるのです、復活されたイエス様は私たちを決して裏切ることなく、また絶対に失望させないのです。私たちはどんなに素晴らしい話しを聞いても、またどんなに素晴らしいことを学んでも、それが自分とは関係ない出来事であるならば、それは全く意味のないものになってしまうのです。イエス様の十字架も、復活も、それが自分にとって「自分ごと」でなく「他人ごと」ならば、私たちにとって光にも喜びにも希望にもならないのです。また復活についてパウロがこのように言っております。「キリストが復活しなかったら私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」Tコリント15:14  もしイエスさまの復活がなかったなら、私たちが宣べ伝えているキリストの御言葉も、また日曜日の朝から教会に来て神を礼拝することること、祈り、賛美、それらの全てが何の意味もなく何の役にも立たない空しいものになってしまうでしょう。また復活がなかったならキリスト教はこの世に存在することもなかったと思います。

 しかし、事実イエス様は私たちの光であり希望であります。これはまさしくイエス様が復活された事に尽きるのです。私たちの生活は人間関係、経済的な問題、病気、悩み、苦しみなど色々なことで途方にくれることが多く、私たちはどうしてもこの社会や人間の限界の中で物事を考えようとしてしまいますが、神がおられる世界なら心配することはありません。全てが神の支配される世界の中でなされることを私たちは決して忘れてはいけないのです。死から復活されたイエス様がいつも共に歩んで下さることに心から感謝を捧げましょう。