2004年9月12日

「愛されて、赦されて」 ルカによる福音書7:41〜48

 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 “愛されたことのない人は、人を愛することはできない。”よく聞かれる言葉です。そんなことあるものか、たとえ愛されなくとも人を愛することができる人はきっといる、などと思う人もいるでしょう。世の中を見てみますと案外この言葉は真実ではないかと思わされます。なぜなら、日毎に起こる事件の背後には必ずと言っていいほど人間関係の問題が深く関わり、愛情の欠乏や屈折が原因となっているように思えるからです。あるセミナーの講師は、虐待の背後には虐待する側に愛情の欠乏を埋め合わせようとする動機があるということを語っておられました。虐待を受けて育った人が結婚し子供をもうけたとして、自分の辛く悲しい経験をその人が自分の子にできる訳がない、と思うのが普通です。しかし、実際は、生育期に愛を受けずに育ち、まして虐待を受けて育った人は、幼子にさえ愛を要求するのだと言います。自分の思っている通り子供がいい子にしてくれることが、その親にとって子供から愛されていることなのです。子供が思い通りにならないことは愛されていないこと、「この子は私を愛してくれない」との切なる思いは「愛して欲しい」という思いと裏腹な暴力行為に至らしめるのです。

 愛されることは別な言い方をすれば、赦されることでもあります。ありのままの自分の存在が赦される。そこに居るために、何かしなくてはならないとか、こうでなければならないということが何も無いということです。イエスさまの前に現れたこの女は罪深い女であったと書かれています。自分は正しいと思い込んでいたシモンは、この女ばかりかイエスさままで心の中で裁きます。しかし、イエスさまは罪という、全ての人が負っている負債を神が無償で赦してくださる方あることを教えられました。私が子供の頃、祖父母の家が魚屋をやっていました。ある夏の日、私は店の前に水を撒いてあげようとホースを取り出しました。舗装もされていない道に向けて勢いよく水を撒きました。すると背後から、祖母の叫び声がしました。何が起こったかと思いましたら、何とホースに穴が開いており、その穴から水が勢いよく漏れ、チョークで壁に書かれていたその日の売り掛けの記録が洗い流されてしまっていたのです。祖母にこっぴどく怒られましたが、消されてしまった人の売り掛けは帳消しになったのです。

 人の罪はホースの水で洗い流せるわけではありません。神はイエス・キリストの十字架という犠牲を支払って私たちの罪を買い取って下さったのです。そこに神の無償の愛が注がれています。

自分が赦された存在であることを知る人は、人を赦すことができる。そして、神の愛で愛することができる。新しい人間関係がそこにはあります。