2004年9月5日

「型破りな神」 フィリピの信徒への手紙2:6〜11

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 世の中、型破りな人というのは古今東西を問わずいるものです。「型破り」とは、考えや行動が常識的に考えられる範囲を超えていること、在り来たりの型からはみ出していることという意味ですが、元々は能や歌舞伎、茶道などにある型を超えた演技や所作から出ているようです。日本人は何でも型から入ると言われています。「学ぶ」という言葉の語源も「真似る」から来ていると、昔聞いたことがあります。歌舞伎の中村勘九郎さんも型を覚えるのに二十年位かかってようやく応用力がついたと言い、その繰り返しで身に着けた上での演技でなければ「型なし」であり、型を守りつつ、新しいものを創造するのが「型破り」と言っておられます。初めは何もわからずにやっていることも型を身に着け、そこに心がついてきて型破りとなるのだそうです。日本人の信仰生活にも似たところがあり、先輩クリスチャンの行動(祈りや奉仕、生活などなど)を真似てるうちに自分の型を身に着けていくようなところもあります。いずれにせよ、本質を理解し、身に着けるのには色々な方法があるが、日本人には型から入った方が分かりやすいというところがあるということではないでしょうか?

 さて、「キリストは神の身分でありながら」と語ったパウロの言葉には{モルフェ}という単語が使われています。英語のmorphology(形態学)の語源となった言葉ですが、生物学や言語学で使われるこの言葉は、キリストが神と寸分違わぬ型を持った方であったというよりも、キリストは神そのものであったことを強調しています。その神が、神である形態に固執することを捨てた、神の身分を捨てられた、とパウロは言うのです。王である身分の者が平民以下の身分に成り下がるという意味以上のことです。その理由は、新しい創造の業のためでした。人を罪ある者から罪無き者へ、死ぬべき者から永遠に生きる者へと造り変えるために、神ご自身がその型を破られたのです。キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心が、救われた者には注がれているとパウロは申します。そこに初めて利己心や虚栄心といった私たちの癖ある型から脱し、新しい創造の業としての個性的な、型破りの人が生まれてくるとパウロは言っているのだと思います。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(2:3,4)」

 今、世界に必要とされているのは、そのような自己犠牲を通して変えられた、型破りな個性的な人ではないでしょうか?「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになった(1ペテロ2:23)」イエスに似た者の存在が求められていると思うのです。