2004年8月29日

「光の中」 ヨハネの手紙第一 1:1〜10

 アテネオリンピックで日本選手は大活躍です。体操の場合、古い体質に光をあて改革していく中で、確信したのは、ウルトラ技よりも基本の徹底だったそうです。影の部分に光を当て、大事なことをその中から見いだしていく。その結果から出てくる、わくわくする毎日、すばらしいことだと思います。

 でも、わくわくできない日もあります。病気や怪我、肉体的な欠陥の故のつらさ、過失に対する重荷、解決できそうにない悩み、年をとる自分の生活や精神的な基盤に対する不安などが、影になっている否定的な自分を引出します。私たちは、他人を責めて自分は悪くないと安心したり、別の楽しいことに没頭して、そうしたつらい感情を忘れようとします。
 しかし、聖書はもっと本質的なやさしさで私達を包んでくれます。私たちに欠けた部分に確実に作用し満たしてくれます。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:3-4) 生まれつき肉体的な欠損をもっておられる、「五体不満足」の乙武(おとたけ)さんやレイナマリアさんは、不便さを感じつつも、決して不幸とは感じておられません。むしろ、豊かな恵みを日々感じ、わくわくするような日々を過ごされています。

 このお二人のように手足がないという明確な影の部分でなくても、私達は、できれば触れてほしくない影の部分をすべての人がもっています。私たちは影の部分を他人に見つからないようにいつも心配し、見つかりそうになったら相手を攻撃し、束の間の安心を得る、ということを繰り返します。

 でも、もっとすばらしい世界があります。イエスさまにより頼む世界です。私たちは神さまが作られた調和の中にいます。神さまが光とすると、私達は、その中に置かれて存在しています。光に照らされた部分は明るく、その裏は影になり暗くなります。でも明るい部分と暗い部分は分離できません。一体なのです。影の部分も私たちの一部分なのです。私たちが光への向きを変えれば、明るい部分の場所も暗い部分の場所も移動します。つまり、明るい部分も暗い部分も一過性の性質であって、それらはすべて私たちの存在そのものです。つまり、影の部分も私たちなのです。神様がつくられたすばらしい調和の一部分なのです。

 すべての物には表面と裏面があります。でもそれは、その両面を持つ物体が一つあるから、その表と裏が存在するのです。たとえば、一枚の厚紙の表裏を分離しようと、はがしてみると、また分離した紙のそれぞれに表と裏ができるのです。そのように両面をもつ私たちは、神様を知るきっかけを得る恵みを与えられます。表の面を見ているときは裏面のことを考え、裏の面を見ているときは表面のことを考え、一つの凝り固まった誤った考えに固執しないように助けてくださいます。

 そしてもっと大事なことは、私たちが自分の影の部分に目を背けたり、忌み嫌ったりしたとき、気づかなければいけないことは、そのように影の部分があることではありません。影の存在を意識できるということ自体なのです。つまり、影があることがわかるというのは、私たち自身が既に光の中にある証明なのです。私たちが、影の部分に悩まされているとしたら、必ず光に照らされた輝く部分を持っているのです。これはすばらしい恵みです。私たちは既に光の中にいるのです。「いかに幸いなことでしょう/勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。絶えず、御名によって喜び躍り/恵みの御業にあずかって奮い立ちます。あなたは彼らの力の輝きです。」(詩篇89:16〜18)