2004年8月22日

「はるかに超えて」 エペソ人への手紙3:14〜21

 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 初め、私は、信仰は自分の努力と決心により神さまが私に下さった賜物と思っていましたが、信仰生活を続けていくうちに、信仰は自分の力や理解する努力にはよらないのだということが次第に身に沁みて分かるようになってきました。健康で不自由なく日々の営みを送り、当たり前のように礼拝に集い、信仰生活を続けていく中でこの十数年来私の体にはさまざまな不都合が起きてきました。交通事故による後遺症、腰椎の病気とその手術、腫瘍(良性)の手術、心臓病とその手術などなど、自分でも思っていなかった出来事が体に起こり、痛みや耳鳴りが一日も無かった日はありませんでした。ところが、不思議なことに、「良し、信じてみよう。」と決心してバプテスマを受けて以来、そのような不都合にさほど影響されていない自分にこのところ気付かされています。この世の視点では病気や事故、仕事上の挫折、生活苦などは不幸なことであり、人生ということで言えば失敗ということになりかねません。しかし、聖書は、創造主なる神と、その神が遣わした救い主イエス・キリストを信じる者には、もはや失敗の人生というものは無くなるということを教えてくれます。すなわち、私たちの上に起こるどんな出来事も、神と関係なく起こるものはなく、全ての出来事に意味があり目的があるのです。理不尽で不合理で不条理と思える出来事は私たちがそのことを理解できない苦しさを与えます。しかし、私たちがもし、全てのことを分かって下さっている神に信頼を置いて前に進むことを選び取ることができるなら、人生には神による大逆転が準備されていることが分かるようになります。

 使徒パウロの、神を信じる者たちへの願いは、救い主キリストを心に受け入れ、住まわすことで、キリストの視点で私たちが自分の人生や身の周りの出来事を捕らえられるようになっていくことです。そこにはそれまで自分中心に見ていた、感じていた世界ではなく、神が本来用意していてくださった恵みにある世界があることが分かります。「努力は自分を裏切らない」と言ったスポーツ選手がいましたが、それは真実です。しかし、信仰は自分の力や努力によって勝ち取るものではなく、一方的に神から与えられる恵みをありのままの自分の姿のまま感謝して受け取ることです。恵みによって始まる信仰生活は、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、遥かに超えてかなえてくださる神の愛を時間をかけて教えてくれます。