2004年8月8日

「基本に忠実」 ヨハネの手紙一2章28〜3章1節

 今年はオリンピックイヤーです。この8月から、世界中のトップアスリートたちが、その素晴らしい技と能力を競い合うスポーツの祭典が始まります。そんな超一流のスポーツ選手たちに、そのスポーツをやる上で最も大切なことは何かと聞くと、ほとんどの人が「基本が大切」「基本に忠実に」と答えます。どんなスポーツにも「基本」と言われる体の動かし方が存在します。その基本をちゃんとマスターした上で、初めて自分なりのアレンジを加え、能力を高めていくことが可能になるのです。

 みなさんにとって、信仰の基本はなんでしょうか?まだクリスチャンでない方は、クリスチャンは何を基本にしていると思われるでしょうか?「聖書だ」「イエス様の言葉だ」様々な意見があると思います。しかし、聖書には本当に多くのことが書かれています。「律法」と呼ばれる、神様が人間に守るように命じた決まり、これが基本でしょうか。しかし、これは難しすぎます。すべて守ることは不可能と言ってもいいくらいです。イエス様の言葉と言っても、やはり簡単なものから難しい喩えまで、本当に様々なものがあります。その中で何が「基本」となるのでしょうか。イエス様は「最も大切な掟は?」と聞かれて、こう答えられたことがあります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」・・・。これが「基本」でしょうか。これも実際には難しいものです。
 基本というのは、本当に簡単なこと、誰にでもできること、そして、一番大切なことであるはずです。そこで思い出される御言葉がひとつあります。イエス様が自分のところに来る子供たちに言われたものです。「天の国はこのようなものたちのものである」また同じように「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とも言われました。ここに答えがあるのではないでしょうか。子供は聖書の細かい知識とか解釈などは知りません。しかし、神様が本当にいらっしゃること、そして、その神様が自分を愛してくれていることを、本能的に素直に感じ取っているんです。だから、聖書のことをよく知らなくても、バプテスマを受けたい、神様を信じて生きて行きたいと心から言うことができるんです。これが「基本」ではないでしょうか。「私は神様から愛されている」それを知ることが、すべての信仰の基本となるのだと思います。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」という御言葉があります。そうなんです。私たちが心や精神を尽くして神様を愛することは確かに大切です。しかし、その前に、まず神様が私たちを愛してくださったということを知らなければいけないんです。それは誰にでもできる基本中の基本です。簡単なことなのです。

 とは言っても、中には、不幸な生活や恵まれない境遇にある人は、自分が愛されているとはとても思えないのではないか、そう思う人もいるでしょう。しかし、神様は、実はそういう時こそ一番近くにいてくださる方です。フィリピンのゴミ捨て場でゴミを拾って生活をする人たちを追ったドキュメント映画で「神の子たち」という作品があります。この中で人々は、苦しみながら、大変な思いをしながらも、本当に人を愛し、人に愛され、そして神様に愛されて生きている姿を見せてくれます。神様は本当に一人一人の人間を愛され、どんな生活、どんな境遇の中にも一緒にいてくださり、一人一人まったく違うやり方で愛してくださっているということを知ることができます。

 「私は神様に愛されている」それを知ることは、本当に誰にでもできる「基本」です。その基本に忠実でありさえすれば、後のことは自然に備わってくるのです。神様は一人一人に別の賜物を与え、用いてくださるのです。逆にその「基本」がちゃんとできていなければ、どんなに聖書を読んでいても、知識を持っていても、それはまったく無駄なものでしかないのです。