2004年8月1日

「大丈夫」 ローマの信徒への手紙8:31〜34

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 人生の危機に遭遇したときにその実力を発揮することができる人はどんな人でしょうか?強い体力、気力、知力に生命力を持っている人でしょうか? さまざまな経験を重ねた海千山千のつわものでしょうか。なるほど私たちは色々な力を持っています。しかし、私は歳を重ねてきてつくづく思うのは、自分に備わったものや手に入れてきたものでは本当の危機に対し得ないのではないかということです。どれほど体力に自信があり、学力によって経済力、社会的影響力を持つことができたとしても、老いや病から逃れることはできません。ここでパウロという伝道者は、人生の実力について、私たちが身につける力によってではなく、私たちを「子」と呼んでくださる神との関係が私たちに生きていく力を与えてくれるのだと言っているのです。そして、その力は神がキリストを通して与えてくださる、永遠の命という約束に基づいているのです。「もし、神がわたしたちの味方であるなら・・」パウロは、この章で「もし」という言葉を何度も繰り返します。普通ならば仮定して語るようなことを彼は断定として語っています。彼にとって、神の約束は「もし、〜であったら」という理想ではなく、既に実現しているのです。神は、御子キリストを通して私たちの味方となることを既に決心して下さっているのだというのです。そして、その事実に生きることが人生の勝利に繋がると確信しているのです。

 素晴らしい性能を持った新幹線もパンタグラフが架線に触れていなければただの箱、どんな高性能なパソコンもプラグがコンセントに繋がれていなければ何の役にもたちません。人もその命を吹き込んでくださった方を知り、触れ、繋がっていなければ霊において生きているとは言えません。そして、何より架線や電線に電気が流れていなければ触れていても力は流れてこないように、本当の力の源、神によって造られ生かされていることに気がつかなければ、人は自分が何者なのかを知ることも、人生の目的を知ることさえもできません。私たちを愛してくださる神が私たちの人生の味方であること、その事実を知り、信じて生きる者には輝かしい人生の勝利が約束されているとパウロは語ります。だから、私はどんな時にも「大丈夫」と言えるのです。