2004年7月18日

「命の回覧板」 列王記下7:1〜11

 エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」

 およそ2000年前、創造主なる神は自らの誉れを捨てて人となり、人の罪の贖いのために十字架に向かうことを良しとされました。そして、私達の身代わりとして罪に死に、甦って下さいました。その良き知らせを弟子達は後の世の私たちに伝えるため、書簡とし、全世界に回覧させられたのです。福音とは、「それではいったい誰が救われるだろうか?」と言われるほどの律法の厳しさを完全に守り切ることによる救いではなく、イエス・キリストの犠牲の死を通して救われるという恵みの知らせです。その知らせは、受け取った者だけに留めておくには惜しい、喜びにあふれるものです。

 列王記はイスラエルの繁栄と衰退、分裂と崩壊を当時の諸王の信仰を預言者の目を通して記録したものです。不幸にも信仰によって始まった王国が、不信仰によって崩壊していく様子が記されています。分裂した北王国はその時、他国からの侵略と大飢饉の脅威に見舞われていました。六章によれば、ろばの頭一つが銀八十シェケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルという高額な値段で売られ、自分の子どもを食べて飢えをしのがなければならないという凄惨なる状況でした。しかし、その状況の中で預言者エリシャは、明日の今ごろ飢えを満たす穀物の大安売りが起こると言ったのです。悲惨な状況下そんなことを誰も信じる者はありませんでした。そこに城門の入り口にいた重い皮膚病の4人組があり、彼らはどうせ死ぬのなら敵であるアラムの陣営に投降し、あわよくば食事にありつこうと知恵を絞ります。すると何と神は、アラムの陣営に戦車や軍馬の音、大軍の音を響き渡らせ、陣営をそのままにアラム軍を撤退させてしまわれたのです。皮膚病の4人は意外な展開に我を忘れ、腹を満たし、金銀を隠そうとしましたが、彼らは互いに言い合いました。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」こうして、サマリアの人々は飢えからも敵の脅威からも救われたというのです。もし、あの4人が、神の計らいを自分達だけのものにしていたらどうだったでしょう。自分の腹は膨れても喜びが無いばかりか、罪の意識にさいなまれたことでしょう。

 私たちがイエス・キリストの福音を受けるということは、文字通り命が救われ、喜びに満たされることです。この良き知らせを告げ知らせるために宣教の恵みが与えられています。クリスチャンは福音という回覧板を回覧させてこそ生きるのです。