2004年7月11日

「信仰とはなんですか」  ルカによる福音書 17:5−10

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 私たちの信仰は、弱い信仰、ちっぽけな信仰だと思います。神さまに向き合っていると、なんと自分は弱いものか、そのように思わずにはいられません。しかし信仰とはそのようなものではないでしょうか。信仰とは、からし種のようにとても小さく弱いものなのです。しかし、この私たちの小さい弱い信仰でも、神さまは用いて下さり何倍にも強めて、大きなことをなして下さいます。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)信仰は弱いです。とても小さいです。しかしそれで十分なのです。

 弟子達は「信仰を増してください」と願いました。しかし信仰は増えるというものではないのです。信仰とは信じるか信じないかどちらかです。中途半端はないのです。信じるということは神さまに僕としてお仕えすることだとイエスさまは言われます。神さまに仕える生き方とは、神さまが言われたとおりに働いたあとで、自分にお礼を言ってくれないと不満を漏らす、そのような生き方ではありません。自分が命じられたことを果たしたなら『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』というだけで、報酬を求めない、そのような生き方です。どんなに素晴らしい立派な働きをしたとしても、神さまの力をもってさせていただいたのですから、それに対する報酬を求める資格はもっていません。私たちは自分の働き、行動を人がどのように見てくれているか、常に人の評価が心を支配しています。報いをもとめます。しかし、イエスさまのみ言葉「しなければならないことをしただけ」というのは、人の評価がどうだとか、どんな報いが与えられるか、与えられないかとかそのような狭い言葉ではなく、むしろ私たちを大きく広い自由な場所に解き放ってくれるイエスさまの言葉です。私たちはすでにたくさんの恵を頂いています。にもかかわらず人の評価、人との比較に心を奪われてしまいます。報いを求めます。ですから報いがなかったら急に空しくなったりします。しかし、そのようなことから開放され自由にされているのです。人からどう評価されようと、報いがなくとも、私たちを愛してくださる神さまが求めておられることを行ったのだから、行えたことに喜び、感謝する、そのような生き方をしたいと思います。