2004年7月4日

「ありのままで」 マタイによる福音書5:13〜16

“あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。“

 「あなたがたは地の塩である・・あなたがたは世の光である。」と言われると、引いてしまう私があります。とんでもない、私などが世の光と呼ばれるなんて分不相応ですと言いたいくらいです。人から見たらそんな言葉で呼ばれるような存在ではないし、そんな立派な生き方もしていない、しかし、何故イエスさまはそう呼んでくださるのか不思議です。先立つメッセージでイエスさまは、貧しい人たち、悲しんでいる人たち、柔和な人たちの幸いを語り、イエスさまのゆえに迫害される者たちは喜び躍り上がるほど幸せ者なのだと語られました。それは、この世とは正反対の価値観です。ナチスドイツから迫害を受け、家族全員を亡くしたコリー・テン ブームさんが戦後福音の使者として働いていた時、刑務所で体験したことを語っておられます。服役者に対してコリーさんは、「あなた方がイエス・キリストにある救いを受け入れるならば、あなたがたには世の光として生きる責任が生じるのです。」と語ったと言います。すると、一人の受刑者が立って叫びました。「今朝、自分は聖書の中に三人の人殺しトリオを見つけた。モーセとダビデとパウロだ。しかし、神はそんな罪人の彼らを神の栄光のためにお使いになった。ここに我らの希望があるじゃないか!」犯罪者がこの世の光、鏡になるなんてよほどの努力をしない限り無理な話です。しかし、犯罪者のみならず、取り返しのつかない人生を選び取った人、絶望に打ちひしがれた人にも主イエスを信じる決心をした人には人生の大逆転が待っているとコリーさんの体験は語っているのではないでしょうか?

 イエスさまは信じる者たちに対して倫理的、道徳的に立派な人であれと言われているのではありません。「世の人々ではなく、あなたの罪のために十字架に向かった私があなたがたを地の塩・世の光と呼ぶ」のだとおっしゃるのです。コリーさんは言います。「強い信仰を持たなくてもいいのです。強い神様を信じるのです。」私たちは行いによって信仰の強さ、弱さを計ってしまいます。しかし、イエスさまが求めておられるのはイエスさまとの信頼関係です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)主イエスの救いを信じる者はありのままで「地の塩」「世の光」なのです。その事実を信じることがこの世を照らし、この世に対して塩気を与えるのです。私たちの力によるのではないのです。