2004年6月27日

「あきらめないで」 ローマの信徒への手紙8:26〜30

“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
 最近に限らず、悲惨な事件や事故を目の当たりにするとき、人はつぶやきます。「神も仏もない。」私たち人間が被るさまざまな困難や試練は、ある意味で私たちを強くし、成長させてくれます。しかし、それは私たちが自分の力で受け止めることのできる範囲内のことであり、許容量を超えると、お手上げです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)とありますが、弱い私はつい「そんなことはない。耐えられない苦しみに会ったらとてもしあわせなどとは言えない。」と思ってしまうのです。苦しいときの神だのみなどと言いますが、本当の苦しみの中にあるとき、人は本当は神を見上げることさえできないのではないでしょうか?ところが、使徒パウロはそんな苦しみに会う私たちを助けてくれるものがあると言います。一つは、私たちの苦しみの世界が贖われる希望です。生きとし生けるもの皆がそれを待ち望んでいるとパウロは言います(ローマ8:22)。神がイエス・キリストを通して苦しみからの開放を確約してくださっていると言うのです。そして、助けとなるもう一つのものは「霊」、イエスさまが信じる者たちに送ってくださる助け主です。

 どう祈ったら良いかもわからない困難なとき、ご聖霊は弱りきってへこたれてしまっている私たちと共にいて、私たちに代わって、苦しみを受け止めてくださるとパウロは言います。そして、私たちに代わって執り成して下さるのです。詩篇50篇に「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」とありますが、霊自らが私たちに主を呼び求める力が与えられるよう、呼ぶ力を無くした私たちのために執り成して下さるのです。どのようなことが起こっても、万事が益となるためにみ霊は信じる者たちと共に働いて下さいます。あきらめないで、み霊に委ねて主を呼び求める信仰を持ち続けて参りたいものです。