2004年6月20日

「変化を求める」 ヨハネによる福音書5:1〜9

 先日携帯を変えました。新しい携帯電話を手にするのはうれしいものですが、説明書を読んで、マスターするのはとても大変なことです。これはみなさんもきっとご経験なされたことと思います。
 きょうの聖書を見てみますと(ヨハネ、5.1−9)ベトザタの池における男の話がでています。この池は、間欠泉であったこと、また赤い水であったということも言われており、おそらく鉄分の含まれた温泉か、冷泉だったと思われます。この池の水が動くとき最初に池に入る者は、癒されるという言い伝えがありました。彼はそこで38年間癒しを待っていたのです。
 間もなく、参院選挙が始まります。世の中は変化を必要としており、与野党共、変化が必要なことは良く言っています。また、テレビでは多くのコメンテーターも同じようにそう言っております。私たちは、皆、変化を求めているのです。

 しかし、それが自分自身のこととなると本当にそうなのでしょうか。
 私は教師をしていますが、10年に一度文部科学省によって、指導要領が改訂されます。その都度その変化に必ず教師達は反発します。10年前、悪いと言っていたはずの指導要領が改訂されるのに、それは良くないと言うのです。つまり、きのうの教え方を変えていかなくてならないことは、自分にとってとても大変なことなのです。
 世の中が変わって欲しいとは思うし、そのように願います。しかし、先程の携帯電話が新しくなることはうれしいことですが、その説明書を読んで、それを使いこなすことは、とても面倒くさい事なのです。つまり、私たちは、周りが変わって欲しいと願いながらも、自分自身が変わっていかねばならないことには抵抗を感じるのではないでしょうか。

 聖書に戻りましょう。
 この男には38年の歴史がありました。辛い年月ではありましたが、その池で彼にはそれなりの生活がそこにあったのです。
 イエス様は彼に対して「良くなりたいか」と聞かれました。この「良くなりたいか」は極めて変な質問だと思います。私たちが長い間患っている人に会ったとき、とても言う言葉ではないでしょう。しかし、イエス様はそのように問いかけました。
 この問いかけは、この男を通して実は、全世界の私たち一人ひとりに投げかけられた言葉なのです。
 「良くなりたいか」を「変わりたいのか」に置き換えてみたらどうでしょう。
 では、そうしたイエス様の言葉をどのように受けとめたらよいのでしょう。
 ベトザタの池の男はそこでイエス様の質問に素直に答えず、言い訳をしています。
 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」

 神様は私たちに、変わりたいのか、良くなりたいか、直りたいのかと、ストレートに問いかけておられるのです。
 我々一人ひとりの現状がどのような状態であれ、神様は「良くなりたいのか」と、聞かれ、そして全き癒しを約束して下さるのです。