2004年6月13日

「二人の求道者」 使徒言行録5:33〜40

 “これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。”

 世の中には二通りの求道者がおられると思います。一人は「人生の問いに対する答えを求めている」人。もう一人は「既に人生の答えを見つけて、答えに従って生きることを求めている」人。そこには大きな違いがあります。「人生の問い」とは、人間だれでも一度は考えることですが、自分は誰で、何処から来て、何処にいく存在なのか。そして、自分は何のために生まれ、何のために生きているのかという問いです。クリスチャンとは、既にその答えを得た人のことです。もう答えを得るために探し歩く必要がないどころか、その答えを伝えるために利己心を捨てて、他者の人生の勝利のために生きていく人のことです。人間には潜在能力というものがあります。自分でも気付かない、隠された才能や能力です。ある人たちは自分の好きなところに力を集中し、その才能を開花させ、生きる意味を見つけていきます。また、ある人たちは人のために自分の力を犠牲的に与え、人生の目的を見出す人もいます。しかし、ここに自分を捨てて、人類の魂の救いのために十字架に向かわれた人がいます。その方の名はイエス、彼は父なる神の元から来て、人類の罪の赦しのために生まれ、自分の命を捨て、甦り、父の元への昇られました。ここに、人の魂のすくいを求める求道者の姿があります。

 私たちがどれほど素晴らしい才能や能力、好きで得意なことがあったとしても、それを何のためにどのように用いるかを知らなければ、生きていると言えるでしょうか?人生を生きて行く道具を得ても、その使い道が分からないということは何と悲しいことでしょう。神は全ての人に使命を与えてくださっています。その使命に生き、責任を果しながら生きるところに私達の人格の成長と生きる本当の喜びが与えられていくことを、人生の求道者からイエス・キリストの福音の宣教者となったペトロとヨハネは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と私たちに教えてくれていると思うのです。使命に生きることは限界を超えて生きることです。常識に縛られて生きることではなく、神の力に守られて、他者の救いのために自分が損することを承知で生きていくことです。自分の力でローマ帝国に反抗したテウダもガリラヤのユダもユダヤの独立に失敗しました。しかし、ペトロとヨハネの人生の目的は神からのものでした。そして、その働きはユダヤから始まり、全世界の罪からの救いへと今も広がっています。