2004年6月6日

「人生の収穫」 ガラテヤの信徒への手紙5:16〜26

 “わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。”

 聖書を通して証しされる神は三つの位格をもって存在される唯一の神であると私たちは信じています。すなわち、父なる創造の神、イエス・キリストとして罪の贖いと復活を遂げてくださった子なる神、そして、昇天後助け主として信じる者に注がれたご聖霊です。聖霊は私たちに目に見えぬ神のご存在と、イエス・キリストを通して現される救いの計画を信じる信仰を与えてくださいます。使徒パウロは本日のガラテヤ人への手紙の冒頭で、自分自身のことを「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と表現しました。回心前の彼は、クリスチャンを迫害する熱心なユダヤ教徒でした。しかし、イエスの霊により心開かれ、彼は自分の力によってではなく、ご聖霊によって実を結ぶ人に変えられていきました。

 信仰の歩みには三つの要素があると言われて来ました。英語で言うところのDoing(行いにおける)、Knowing(知ることにおける)、 Being(存在における)です。聖書の言を知り、実行し、信仰に生きることは尊いことです。しかし、生身の人間である私たちが、神のために何かをすることには疲れや行き詰まりが付きまといます。自分の頑張りによって神に忠実であろうとすればするほど体が付いて行かなくなり、自分のしたいことができなくなるとパウロは言います。「霊の導きに従って歩みなさい」との言葉は体の欲求が否定されているのではなく、自分の存在(Being)と神さまととの関係がどんな関係にあるのかが正しく分かっていないと肉体としての存在に崩れが起きると言っているのです。「霊の実」は自分の力で実らせるものではありません。不可能です。それは、神のみ手により恵みとして成長させられた後、自然に与えられるものです。まさに、人々からでもなく、人を通してでもなく、父なる神によりイエス・キリストを通して与えられる聖霊によってもたらされる実りなのです。わが身の力で収穫したものは朽ち果てますが、神から与えられるもので成熟させられる人の実は残ります。「わたしがあなたがたを選び立てた。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るため。」とイエスさまは言われました。私たちの頑張りからではなく、神と共にあるとき、私たちを通して働かれる神の業は尽きることがなく、渇き、疲れることもありません。そして、その業は霊の実として私たち自身を変えていきます。