2004年5月30日

「イエスの名によって」 使徒言行録3:1〜10

“ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。”

 本日はペンテコステ、五旬節とも七週の祭りとも言われる、イスラエルにとっては過越しの祭りに続く大麦の初穂を捧げて後、50日目の祭りです。この日、主イエスを信じる群れの中にイエスさまが約束された助け主、「聖霊」が注がれました。悔い改めにより神に立ち返った人々に、イエスさまの十字架の犠牲による罪の赦しと、復活による永遠の命を与えられるという約束が、聖霊によりもたらされました。それまで、弱々しかった人の群れは、大胆に恐れることなく、主イエスにある福音を語り始めたのです。イエス・キリストを頭とする生きた教会の誕生です。弟子達の中でリーダー格のペトロは、イエスさまを裏切り見捨てて逃げ出した弱虫でしたが、ご聖霊は彼に新しい命を吹き込んで下さいました。そして、大胆にイエスが主であられることを証ししたのです。それを聞いて受け入れた人々はバプテスマ(洗礼)を受け、その日に3000人ほどが救われたと記録されています。

 黙示録3章にラオデキアにある教会に宛てた言葉があります。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」その言葉は、物質的に満足してしまった教会が神さま無しで生きていけると思う傲慢に対して語られている言葉ですが、逆もまた真なりで、自分の人生を悲観したり、自分に絶望したりして神さまを信じていても生きていけないと誤解している人に対しても語られていると思います。ペトロとヨハネが出会った生まれながら足の不自由な男(年およそ40歳と書かれている)は、その身の上ゆえに物乞いをして生きていくしかなかったのですが、ペトロから間に合わせの生活を支える金銀ではなく、彼の生涯を支え、供に歩んでくださる助け主を与えられました。それは「イエスの名」聖霊の働きでした。目先というより、現実の生活を支える糧も確かに必要です。しかし、イエスの名による罪の赦しを得、魂癒されて新しい命に生きる生き方を始めることはもっと大切なことです。足の不自由だった男は、立たせていただいたのみならず聖霊によりイエスの名を信じる信仰を得、ペトロとヨハネの言葉によって他にも男の数だけで5000人もの人々がその日救われました。