2004年5月16日

「万能石鹸」 コリントの信徒への手紙一 3:10〜17

“わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。”

 昨今、国会議員の国民年金未納未加入問題が問いただされていますが、先日はテレビの代表的なニュースキャスターの皆さんまでもが未納であったことが分かり、謝罪しておられました。その他にも東京都知事や政治評論家の中にもあったそうです。ヨハネによる福音書8章で姦通の女を現行犯で捕まえ、イエスを訴える口実にするために、律法学者やファリサイ派の人々はイエスにその裁きを委ねました。すると、イエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい。」と言われました。それを聞いていた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ったと記録されています。人のことは言えないものです。私は、事、法律や規則ということにおいて自分のことを棚に上げて、国会議員のことを言える筋合いはありません。自分は落ち度無く今まで生きてきたなどとは言えないからです。まして、心の中で日々犯している罪のことを思うと自分を清い者とは到底思えません。政治家の皆さんであれば禊(ミソギ)と言って、役職を辞任したり、謝罪したりした後で返り咲くことも可能でしょう。しかし、私たちの霊的なけがれを清めるとなると簡単ではありません。イスラエルの人々は罪のけがれを清めるために犠牲(生贄)を捧げ、動物の命と引き換えに神の赦しを乞うたのです。

 使徒パウロは「正しい人は一人もいない」と断言しました。人は行いにおいて神の前に聖なる者として立てる者は一人もいないのだと言うのです。パウロはまた、キリストの犠牲による神の赦しを信じる者の体は神の聖なる神殿なのだと言います。将来に於いてとか、可能性に於いてではなく、既に清い者と変えられてしまっているのだと言うのです。私たちの罪の清めはどこから来るのでしょう。それは、自らの力によるのではなく、イエス・キリストという犠牲の羊を通して来ると言うのです。私が学生の頃、大学の営繕でアルバイトをしていたとき、メカニック担当の学生が仕事で油まみれになった普通の石鹸でも落ちない手の汚れを簡単に落としてくれるワックスのような石鹸を差し出してくれました。彼が言いました。「これは万能石鹸だよ、本当にどんな汚れも落ちるんだ。ひょっとしたら君の罪のけがれも落としてくれるかもよ。」イエスさまはそんな石鹸よりはるかに強力な、私達の罪のけがれさえも清めてくださる血の犠牲を払って作られた万能石鹸です。キリストを信じる者は、もう清くなるために頑張る必要はありません。それが基本であり土台です。恵みによって清くされた者として「感謝」という応答をもって生きていくこと、そこに神の報いは大きいのです。