2004年5月9日

「主を畏れる女」 箴言31:10〜30

“有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。彼女は生涯の日々夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。羊毛と亜麻を求め手ずから望みどおりのものに仕立てる。商人の船のように遠くからパンを運んで来る。夜の明ける前に起き出して一族には食べ物を供し召し使いの女たちには指図を与える。熟慮して畑を買い手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。力強く腰に帯し、腕を強くする。商売が好調かどうか味わい灯は夜も消えることがない。手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。夫は名を知られた人でその地の長老らと城門で座に着いている。彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。力と気品をまとい、未来にほほえみかける。口を開いて知恵の言葉を語り慈しみの教えをその舌にのせる。一族の様子によく目を配り怠惰のパンを食べることはない。息子らは立って彼女を幸いな人と呼び夫は彼女をたたえて言う。「有能な女は多いがあなたはなお、そのすべてにまさる」と。あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。”

 妻として、母として、そして女性としての理想の人について語られる箴言最終章は、やはりその主題をもって終えます。すなわち、第一章で語り始められる「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」という言葉です。マサの王、レムエルの母からの聡しの言葉として語られた戒めはほとんど完璧な女性像を私たちに示します。箴言とは語源では「比較」の意味があり、ギリシャ語で訳された70人訳では「譬え」や「格言」という意味です。神学者のマシュー・ヘンリーはこの箴言31章を「貴婦人の姿見」と表現しました。この言葉を鏡とし、自分と比べて精進しなさいと言っているのでしょうか?きっと立派にご自分の分をわきまえ、役割を果たしておられる婦人方にはこの箴言の言葉はあまり意味をなさないと思います。しかし、男性にとっても多くの女性方にとってもこの言葉は不可能に近い妻の理想像ではないでしょうか?だからこそ、万が一そのような妻を見つけたなら、それは世界最高価値の真珠よりはるかに貴いものを見つけたことになるというのです。イエスさまは、ある金持ちの青年がイエスさまの下に来て、永遠の命を得るにはどうしたらよいかと問うたとき、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・それから、わたしに従いなさい。」と答えられました。すると青年は悲しい顔をして立ち去りました。彼はお金持ちだったからです。イエスは言われました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」それは、不可能を表現する当時の譬えでした。弟子達の「それではだれが救われるだろう」との声にイエスさまは、「神には何でもできる。」とお答えになりました。

 ここで語られる理想的な妻は、非の打ち所のない人です。全ての働きに隙がなく、人に対する振る舞いにも、品格においても完璧な人です。ある意味、そんな妻を見つけるのは不可能なことです。しかし、どうやらこの妻の貴さとはその働きによるものではなく、「主を畏れる」ことから来ているようです。主を畏れることは知恵(知識)の初めと語られるように、どんなに成績がよく偏差値が高く皆が驚くほど物知りで、うんちくがある子どもを育てられても、母親自身が一人の人として、神の存在を認め、神の前に膝をかがめ、へりくだることがなければ母も子も人としての成長のスタートさえ切ることができないと教えるのです。しかし、また、主を畏れる妻は、妻として、母として、また女性として完全な者と認められています。畏れるべき主に導かれて歩む妻は自分自身が神の前に真珠のように貴い存在とされていることを知り、神の手によって変えられていくのです。