2004年5月2日

「信仰と生き方と」 コロサイ人への手紙2:6〜15

“あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。”

 「信じていること」と「生き方」とは互いに影響を与え合います。「人は生きてきたように死んで行く。」と言った人がいますが、人は信じている通り生きて行くのではないでしょうか?その人の生き方を見れば、その人が何を信じて生きているか、あるいは信じているものがあるかどうかをある程度うかがい知ることができます。クリスチャンになってから長い間、私は熱心に忠実に奉仕し働いていくことが神さまに喜ばれることと信じていました。もちろんそれは大切なことですが、恵みによって救われたことを分かっていながら、いつの間にか「クリスチャンは〜であらねばならない」と、無意識に自分の中に規則を作って生きていました。実に私の生き方は、恵みによってではなく、行いによって支えられていたのです。キリストの十字架の意味をパウロは、「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」と、人が生きて行く基準はもはや、行いという私たちを訴える規則や律法ではなく、イエスさまの言われる新しい律法「互いに愛し合う」ことにあると語りました。

 何も入っていない水槽に水を注ぎ、めだかの群れを入れると、めだかは真ん中あたりに集まってあまりその場を動こうとしないそうです。そこで、手ごろな石を水槽に入れてやると、めだかたちは自由に泳ぎ始めるのだそうです。一説によれば、石という基準が与えられ、めだかたちは自分の位置がわかり安心して泳げるようになるのではないかと言われています。確かに法律や規則は私たちの社会に基準を与えてくれます。しかし、イエスさまの十字架と復活によってもたらされた自由の律法は私たちの間に愛と恵みという基準を与えてくれます。イエスさまの新しい律法は「〜ねばならない。」という規定を破棄し、私たちに喜びと自主自発的信仰とを与えてくれます。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』(マタイ21:42)主イエスの十字架という犠牲の上に立てられた石、神の恵みと慈しみのしるし、救いの約束を信じる信仰は、その生き方さえ恵みと慈しみを中心とする生活に変えていくのです。