2004年4月25日

「新しい自分」 コリント信徒への手紙二5章11〜21

 五月病という言葉があります。新入生や新入社員、また新しい年度で生活環境が変わった人が、5月に憂鬱さを覚えたり、やる気を失ってしまうことを言います。そもそもこの五月病が、なぜそう呼ばれるかというと、4月というのが「新しく何かを始める時」と決められているからです。4月は新しい年度の始まりです。私たちは、この「区切り」というものをとても大切に考えてしまいます。

 例えば、お正月もそうです。大掃除、すす払いで家中を隅々まできれいにし、除夜の鐘を聞いて108個の煩悩を取り除き、心もきれいにし、まったく新しい自分になってお正月を迎えたいと思うのが、私たち普通の日本人の姿です。新しい年、新しい年度、新しい環境に向かう時、私たちは気持ちを入れ替えて、全く新しい自分になって迎えようと思います。
 しかしながら、人間というのは弱いもので、そう簡単に自分を変えることなどできないのです。大晦日に、隅々まできれいにした家で、除夜の鐘で清らかにした心で迎えた新年ですが、それがどうなるかというと、一年後にはまた同じことをしているんです。すぐにホコリも汚れも付いてしまい、心もすぐに煩悩だらけになってしまいます。自分では新しくなったと思っていても、何も変わっていないんです。なぜそうなってしまうのでしょうか。

 「私」が「私」として生きている以上、世界の中心というのは「自分」です。つまり、みんな自分のあるじは自分です。しかし、自分が自分のあるじであるなら、当然、自分の周りに起こってくる事柄に対して、必ず自分が目の前に立って対さなければいけません。除夜の鐘を聞いて「自分は新しくなった」と思った人も、年度の始めに「今年は心機一転」と誓った人も、結局は自分で片付けたものを自分で散らかし、自分で散らかしたものを自分で片付けるということを繰り返しているだけで、根本的には何も変わらないのです。この形は、自分のあるじが自分である以上、変わりようのないものです。

 では、本当に新しくなるというのは、どういうことなのでしょうか。聖書はこう言います。

「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 罪のないイエス・キリストという方が、あなたのために、私のために死んでくださった、そして復活してくださった、だからあなたはもう自分自身のために生きるのではないのだ、と言うのです。自分が自分のあるじである以上は変わらない、と書きましたが、聖書は自分のあるじの座を神様に、イエス様に明け渡して生きてみなさいと言われます。そして、キリストと結ばれた者は誰でも「新しく創造された者」だと書かれています。一年後にまた除夜の鐘を聞かなければいけないような者ではなく、全く新しい自分に生まれ変われると言うのです。

 自分のあるじの座をイエス様に明け渡した者は、自分の周りに起こる事柄に対しても、必ず自分とその事柄の間に、神様、イエス様が間に入って働いてくださるんです。人には必ず、自分の力ではどうしようもないことというのが起こります。そんな時にも、神様、イエス様が代わってそれに対してくださると知ることができるのです。

 2000年前に、イエス・キリストが十字架に付けられ、処刑されました。その方は3日目に復活してくださったのです。このイースターの出来事が一体何を変えたのか。私を、そしてあなたを、完全に新しい者へと、神様に委ねて生きられる者へと変えてくださったんです。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」

 安心して委ねて、新しい自分に自信を持って歩んでゆきたいと思います。