2004年4月18日

「大切な君」 ヨハネ福音書20:24〜29

 “十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」”

 「見ないで信じる者の幸い」について語るトマスの身に起きたこの出来事は、2000年後の今を生きる私たちにとっては神さまからの大いなる贈り物と言う事ができます。ヘブライ人への手紙は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と信仰の本質を教えます。しかし、実際には人間は目に見えるものの方が信じやすいと思います。トマスという人はマタイ、マルコ、ルカ、のそれぞれの福音書に名前だけで登場する、ある意味脇役です。しかし、ヨハネはイエスさまが神の子であることを証ししたこの福音書で、トマスに重要な役割を与えています。彼は現実的でしかもイエスさまに対する一途な正直者として紹介されています。イエスさまが十字架にかかり、死なれた時、弟子達はどれほど落胆し、悲しんだことでしょう。ところが、彼らはイエスさまが預言通り復活なさり、彼らの前に現れてくださった時、大いなる喜びと確信とを与えられました。ただ、トマスだけがその現場にたまたまいなかったのです。彼はきっと復活後のイエスさまに出会った弟子達が羨ましかったに違いありません。彼らの証言にも妬みを感じたことでしょう。「どうして自分だけが」といったのけ者にされたような気分だったことでしょう。しかし、イエスさまはそんなトマスに現れてくださいました。トマスは疑り深かったのではないと思うのです。彼はむしろイエスさまのよみがえりを信じたかったのです。そして、一途に愛したイエスさまに会いたかったのではないでしょうか?イエスさまはそんなトマスをないがしろにはなさいませんでした。生きて働く神と、み子イエス・キリストの生きた証人とするためにイエスさまは彼のために再び現れて下さいました。

 弟子の一人に過ぎない、現実主義のトマスは他のどんな人々の告白にも勝る主イエスへの信仰を「わたしの主、わたしの神よ」と、自分との個人的な関係で言い表しました。イエスさまにとってトマスは大切な人だったのです。トマスは今を生きる私たちを代表して、神を見なければ信じないという人々のために、主のご復活を目で見、手で触るという方法で確かめ、動かしがたい証拠をもって私たちに証言してくれたのです。「見ないで信じる者の幸い」とは、聖書に記録されたトマスの体験とその証言とを信じ、あたかもトマスと一緒にその場にいたかのように生きる者の幸い、目に見えないものを自由意志で選び取る者への神の祝福と言う事ができます。