2004年4月11日

「主はよみがえられた」 マタイによる福音書28:1〜10

 “さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」”

 先日、映画「黄泉がえり」をテレビで見ました。同名の梶尾真治原作のものを塩田明彦監督が映画化したものです。愛するものを亡くした人々の想念が不思議なエネルギーにより死者を蘇らせるという物語でした。愛するものを亡くした悲しみや切なさが、愛するものと「逢いたい」という気持ちを強くするのだと思わされました。物語は、よみがえりとはむしろよみがえった死者たちによって新たに生きる意味を見つけた人々のことと語り、人は本当に愛した人と一時間でも一分でも一秒でも心が通じ合えたならたとえ死に別れても幸せと言え、その思いがある限り前を向いて歩いていくことができるのだと結んでいました。人間とは不思議なものです。自分もいつかは死に行くものであるにもかかわらず、別れたものを乞い慕い、自分の元へ帰って来ることを願って止まないのです。そして、人は作り話ででもいいから「逢いたい」気持ちを癒されたいと願うのかもしれません。

 今から2000年ほど前、ある不思議なニュースがエルサレムの町に流れました。目の見えない人の目を開け、足の不自由な人を歩かせ、重い皮膚病を患っている人を清め、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、死者を生き返らせ、貧しい人に福音を告げ知らせて歩んだイエスというナザレ村の人が訴えられ、有罪とされ、十字架刑に処せられ死んで、三日目の朝甦ったと言うのです。にわかには信じられないこの出来事に遭遇した人々によって福音書が書かれ、その事実を分かち合うために多くの手紙が交わされました。その出来事は、私たち人間の死という現実に「復活」という新しい光を投じました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言い放ったイエスの甦りの出来事は、永遠の死からの開放を宣言したのです。使徒パウロは「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」とさえ言っています。主の復活は単なる体のよみがえりではありません。朽ちない体と永遠の命が与えられることです。

 神は、私たちが別れてしまった人にもう一度「逢いたい」と願う以上に、私たちが失われることなく、永遠に生きることを願っておられます。神はそのひとり子を私たちの罪を買い取るための身代金とされました。神はもらいっ子に過ぎない私たちを救うために実の子イエスを十字架に見殺しにされたのです。それは、私たちが永遠の命を得るために他なりませんでした。パスカルは「私は万物の創造を信じる以上にイエスの処女降誕と復活とを信じる。何故なら最初に人を創造することよりも、(復活という)二度目の創造の方が簡単だからである。」と言っています。はるか二千年前、エルサレムで起きた出来事が今そのニュースを初めて聞くあなたの元に届けられました。「主はよみがえられた。」あなたは、この事実にどうお応えになるでしょうか?