2004年4月4日

「誰のために」 マタイによる福音書21:28〜32(新共同訳)

 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 イエスさまは最後の過ぎ越しの祭りをエルサレムで祝うために神殿を訪れ、広場で売り買いしている人々や犠牲の動物たちを追い払うという過激な行動をされました。そのことは人々の反感を買ったばかりでなく、指導者たちとも次第に対立の色を濃くしていくことになっていきました。そのような状況の中、再び神殿の中でイエスが教えておられると祭司長や長老たちが近寄り、権威についての問答を始めました。本日の聖書の箇所はマタイ福音書にしか見られない短い譬えですが、簡単なようで深みのある教えです。日本語の口語訳と新改訳で、その譬えは兄と弟が逆に訳されています。兄の方が「行きます」と言って実際は行かなかったと書かれているのです。おそらく、兄をイスラエルの民とし、弟を罪人たちや異邦人と見立てて説明しようとしたからだと思われます。マタイ20章にある「ぶどう園の労働者の譬え」で語られた「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」というテーマを踏襲していると考えられるからです。しかし、原典は兄、弟という表現にこだわってはいません。父親が最初に出会った息子とその後に会った息子というだけのことなのです。このことからこの譬えのテーマは兄弟そのものでも、言行一致を教えたものでもないことが分かります。最も大切な事は、イエスさまからの問いであり、「父親の望みどおりにしたのはどちらか」ということです。イエスは、徴税人や娼婦の方が父の望みを成したと言われるのです。明らかにそれは彼らの行いが祭司長や長老たちに勝っていたということではありません。イエスさまとイエスさまの教えを素直に受け入れたのはどちらだったかということです。

 信仰とは、神への願い、神への要求に生きることではありません。神からの問いに答えていくことが信仰なのです。自分の人生や日常生活に役にたつから信じるということからかけ離れ、神を信じたらどれほどの幸せ者になれるかという所からは始まらないのが信仰と言えます。兄と弟はそれぞれに父親からぶどう園で働くようにと頼まれました。収穫の最盛期だったのでしょう。雇った労働者だけでは足りず、息子たちの手さえも必要だったのです。しかも、その収穫は重労働でした。兄弟がしぶるのも無理はありません。しかし、一方は断りながらも後で考え直して出かけて行ったのです。イエスさまが十字架に死なれたのは徴税人や娼婦たちのためにではなく、ご自身を受け入れなかった祭司長、長老たちのその罪のためでした。イエスさまはそのような受け入れない人々に、考え直して神の恵みに立ち返るよう問いかけておられるのです。信仰生活とは過酷なぶどう園での労働のように苦しく辛いものかもしれません。「父の望みどおりにしたのはどちらか?」私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエスさまとその言葉とを受け入れる者となること、それが父なる神の望みです。