2004年3月21日

「神の言葉の根拠ある真実」 ヘブライ人への手紙 4:12−16

 “というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。”

 「真実」、総督ピラトがイエスに「真実は何か?」と訪ねましたが、今日、絶対的な真実を信じている者はほんのわずかしかいないように思えます。全ては相対的なものであるというのが大学教育のキャッチフレーズとなっています。しかし、科学的理論や法則、その検証といった方法の全ては理性を持った神が全てを創造されたという聖書的確信に基づいてなされているのです。現在に至る数多くの科学者はクリスチャンか、あるいは少なくとも有神論者です。彼らは研究という理性的な作業を通して宇宙や大自然の中に秩序が存在し緻密な設計がなされていることを認めているのです。宇宙の起源を説明するビッグバン説でさえ、宇宙は無から始まったという聖書の言葉を裏付けています。また、生物学でさえ、進化論では説明のつかない生命の不思議さを認めています。遺伝子の研究は、単純な細胞さえ創造を超えた構造を持ち、複雑な暗号を通して制御されていることを発見しました。それは、生命が偶然発生したのではなく、あらかじめ設計されたものであることを示唆しています。ならば、私たちが私たちの理性を超えた設計者の存在を知ろうとしないことは何と愚かなことでしょう。

 全てのものは相対的であるという考え方は、モラルという分野でも危険な考え方だと言えます。現代社会や文化は、婚姻上の貞節さや正直であることの大切さ、生命の尊さというものを軽視しがちです。今や多くの人々が聖書の教えや伝統的なモラルといったものを古めかしく、ファッショナブルではないと感じています。しかし現実的には、性の自由が人の心を傷つけ、命をも危うくし、結婚の私物化が夫婦関係を破壊し、家庭を崩壊させているのです。その現実を見るにつけ私たちは、神の言葉は理にかなっていると考え直さざるを得ません。

 神の言葉の真実は私達にはすぐには理解できないかもしれません。しかし人がどう言おうと、歴史は、聖書の言葉に意思的に従って生きた人々には皆内なる平安と人生の達成感が与えられたことを証しています。また、神の言葉は私たちの本心を明らかにし、試練を通して訓練します。試練に与えられた一つの役割とは、交わりを通してクリスチャンが励まし合うことです。健康で健やかな時に礼拝や集会に参加するのみならず、苦しみや病のただ中にある時こそ交わりは大切であり、み言葉に触れ、信じる人に触れ、励まし合うことは長い目で見れば大いなる助けとなるのです。また、私達と同様、試練に会われ、私達の弱さを知っておられる主イエスに近づき、交わりを持つことも大切なことです。

 どのような状況にあれ、私達にとって天と地と私達とを創造された神に従うことだけが本当に意味あることなのです。パウロは言いました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人の教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(2テモテ3:16、17) み言葉、祈り、交わり、そして、福音を通して神との深い関係を日々求めて行きましょう。そこには後悔はないはずです。何故なら、神が最善をご存知だからです。