2004年3月14日

「人生の近道」 出エジプト記13:17〜22

 “さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。”

 「急がば回れ」という諺があります。「急ぐ時には、少しくらい危険でも近い道を通りたくなるのが人情であるが、それがかえって失敗を招く原因にもなる。多少手間がかかっても安全な方法を選んだ方が結局は得策である。」(故事ことわざ辞典より)との意味だそうです。しかし、分かっていても私たち人間は目的地や目標になるべく早く到達したいものです。なるべく、遠回りは避けて近道があればその道を選ぶのが普通ではないでしょうか?

 イスラエルの民はその先祖ヤコブの家族と共にエジプトに身を寄せ、モーセによるエジプト脱出まで430年もの間そこで暮らしました。しかし、初めは良かった王との関係も代替わりするうちに悪くなり、彼らはエジプトの奴隷の民となっていきました。そして、遂に神の導きにより民はエジプトを脱出することができたのです。しかし、そこで神は彼らを故郷のカナンの地へ導くために最も近い道、ペリシテ街道に導かれませんでした。なぜならその道はペリシテ人の軍隊により警護されていたからです。徒歩でもわずか11日〜12日という近道はイスラエルの民にとっては困難の道だったのです。ここに神の私たちへの導びき方が現されています。パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で「神は試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と語ったように、神は私たちの弱さをよく知った上で導いて下さるのです。しかし、その逃れの道も決して楽な道ではありませんでした。それは安全な道ではありましたが、困難の道、荒れ野を歩む道でした。神は神の目的のために私たちを荒野に導き、訓練されることがあります。それは、私たちにとっては遠回りでやっかいな道かもしれません。しかし、神はただ私達を荒野に追いやることはなさいません。イスラエルの民には第一に「ヨセフの骨」を与えられました。それは、神がエジプトから必ず彼の家族を故郷に連れ帰るとの神の約束を現します。私たちにとっての約束とは、福音を信じる者に与えられている永遠の命、天国への帰還の約束です。そして、第二に荒野の中で彼らを導いた雲の柱と火の柱です。それは、神の臨在、神が信じる者たちと共にあることの証しでした。ヘブライ人への手紙で著者は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と語りました。そして、神は私たちを本当の子として扱われるがゆえに懲らしめが伴うと言うのです。できれば私達は失敗や挫折を味わうことなく近道して一生を過ごしたいです。しかし、神は私たちを罪から救うために近道することなく、イエスさまの十字架の犠牲によって天の故郷に帰ることができるようにして下さいました。そのイエスさまと共に歩むことこそ人生の近道なのかもしれません。