2004年3月7日

「グッド・チョイス」 コリントの信徒への手紙一 1:26〜31

 “兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。”

 中学2年生の時、理科の先生が郡の中学校を対象とした科学コンクールに参加するために実験チームが作られました。4人の生徒が選ばれ、何と私もその中に加えられました。2年生の時は「唾液の消化作用」について、そして3年生の時は「氷の融解熱」についての実験でした。何故私たちが選ばれたかは判りませんが、今思うに、皆理科の実験が好きだったこと、そして、それぞれに違った個性があったからではないかと感じています。一人は正確で緻密な実験を得意とし、もう一人は実験の分析力に長けていました。残りの一人にはリーダーシップがあり、私はというと、グラフやイラストを使って結果をまとめるのが好きでした。きっと、先生はそんな私たちの性格を授業を通して観察していたのかもしれません。一つの目的のために、先生は先生なりに皆の中から私たちを選んでくれたのだと思います。この世でさえも、何かを成すために人を漫然と理由無く選ぶことはありません。そこには選ぶ目的と理由とがあります。ならば、神さまのご計画はどうでしょう。福音書によれば、それは神を信じる全ての人が永遠の命を得ることと書かれています。人類の救いという目的のために神も人を選ばれます。しかし、神の選びはこの世の選択とは違うようです。パウロによれば神は、知恵や能力、家柄がよく、地位も名誉もある人々ではなく、それとはまったく反対の人々を選ばれ、神の救いのご計画のために用いられるよう定められたと言うのです。その理由は、「だれ一人、神の前で誇ることがない」ため、でした。しかし、それは優れた人たちが救いから見放されたということではなく、神のまなざしは神の前にへりくだる者の上にあるということです。

 パウロは、神に選ばれた者として、ただ神の救いのご計画に参加すればよいとは言っていません。参加するばかりでなく「わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(1コリント9:25)と言い、ヤコブも、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくのです。」と言います。神の選びは私たちの救いに留まりません。救われただけでなく、選ばれたとしたなら、私たちは他のまだ福音を知らない人々の救いのために選ばれているのです。たとえどれほど豊かな人生を、満足する人生を、勝ち組と言われる人生を送れたとしても、受けた救いを他の人々に宣べ伝えることがないなら、私たちは信仰の勝利を味わうことはできません。また、「全世界を受けても、自分の命を存したら何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」と言われている通りです。人を救いに導き、人生に勝利を得させるために、神は私たちという小さな者たちを福音のために選んで下さいました。