2004年2月29日

「神のリクエスト」へブライ人への手紙11:1〜6

 “信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。”

 使徒パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」と言いましたが、それは大いなるものの順番を示したものでも、信仰は二の次と言っているのでもありません。愛はすべてを完成させる絆として大切なものであり、私たちを信仰によって神につなぐものとして大切なものなのです。そのような意味で、信仰と希望と愛とは合い働いて私たちの益となるものなのです。私たちの身の周りを見てみると、ヘブライ書が言うように見えないものによって世の中は作られ支えられているように思えます。人間関係、特に親子や夫婦の関係など、見えない心の関係が形となって表れ支えられ、私たちの願いや夢が社会や環境を形作っていると言えます。そういう意味でもこの世界は神の意思の現れと言うことができます。

 私がクリスチャンになって良かったことの一つに、「ねばならないこと」から開放されたことがあります。「べきこと」「ねばならないこと」からの開放は、私に意思的な選択と自由とを与えてくれました。しかし、今思うと、その新しい生き方は正しい基準から始まっていたのです。それが、信仰における「ねばならないこと」です。ヘブライ書は「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」と言います。人がどんなに素晴らしいものを捧げようが、仕えようが、信仰がなければ神は喜んでくださらないのです。音楽家が人に絶賛されるような演奏をできても、絵描きが目をみはるような作品を描いても、実業家が素晴らしい事業を成し遂げても、あるいは人が自分自身納得できる人生を送ることができたとしても、信仰がなければ神はそれを喜んではくださらないのです。逆に言えば、神を喜ばせることにおいて、信仰に代わるものは他に何も無いということです。また、神を喜ばせることは、人の満足を超えるものを私たちが得るということでもあります。

 神に近づく者への神のリクエスト、「ねばならないこと」とは、「御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じていなければならない」ことです。神の存在を信じておられる人は多いことでしょう。しかし、その神がどなたか、どのような神でいらっしゃるのかを知ろうと求める人は少ないのです。試練に会い、思い通りにならない人生を歩むとき、私たちの信仰は本物であるかどうか、どの神に対する信仰かが試されます。しかし、神の存在を信じるばかりでなく、その神が報いの神であることも知り、その神を信じるとき、私たちに人知を超えた本当の神からの平安が与えられます。それは、到底この世が与えることのできないものなのです(ヨハネ14:27)。唯一の「ねばならないこと」を守るとき、神がどなたであるかが明らかになっていきます。