2004年2月15日

「おもてなし」 ルカによる福音書10:38〜42

 “一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 人間には本音と建前というのがありますが、このマルタとマリアの姉妹に起きた出来事を理解するにもどうも合点がいかないところがあります。私のような建前のクリスチャンとしてはマリアの取った態度の方が正しいと判断するのですが、一方ではそれでは皆のために一生懸命奉仕してくれようとしたマルタの立つ瀬がないじゃないかと本音の部分はつぶやくのです。実際、世の中のみならず、教会の中でも、マルタのような人たちがいてくださることによってさまざまなことが動き、回っています。見えない積み重ねられた奉仕や捧げ物が教会の運営や活動を支えていることには疑いの余地はありません。「おもてなしなんかいい、霊的なことの方が大切なんだ」と言い切ることは、もてなしを受ける側の勝手な言い分かもしれません。事実、礼拝に集って来た方々が、礼拝そのものよりも教会の人たちのほんの小さなおもてなしや心遣いに癒され、励まされて帰っていかれることも多くあるのです。

 イエスさまはここで、奉仕の働きは祈りや学びに劣るとおっしゃっているのではないのです。優先すべきものを優先しないと奉仕や生活そのものがせわしく、多くのことに思い悩み、心を乱すことになってしまうことを教えてくださっているのです。マルタの訴えに、イエスさまは慈しみ深く語りかけられました。「マルタ、マルタ」それはマルタのことを否定するような呼びかけではありませんでした。「マルタよ落ち着きなさい。本音で言えば君もわたしの話を聞きたいんだろう?そんなにご馳走をたくさん何皿も作らなくてもいいんだよ、そう、必要だとしたら一皿でいいんだ。だったらそんなにせわしくしなくても大丈夫、皆も解ってくれるよ。」イエスさまは私たちに奉仕することを第一のこととして望んではおられません。イエスさまは「出て行って働きなさい」とはおっしゃいませんでした。むしろ、「わたしの所に来て休みなさい」と彼の所に来て憩うことを第一のこととしてくださっています。

 忙しい世の中、ついつい心乱れてしまいがちです。しかし、それは大切な魂の休息をないがしろにしてしまう私たちの優先順位の付け方の間違いから来ているのではないでしょうか?敬うべき方を敬い、礼拝すべき方を礼拝することから始める生活を形ではなく真心から行うところに神の祝福は大きいのです。