2004年2月8日

「み手の中で」 エレミヤ書18:1〜6

 “主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。”

 「主なる神は土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と創世記(2章)は語ります。神の手により選ばれ祝福された器、イスラエルの民は信仰の父アブラハム以来神に導かれて歩んでいたはずでした。しかし、彼らはいつの間にか主の手を離れ、自ら好む神々へと心を移していきました。造り主の息を受けず身勝手に生きる彼らに大国が次々と侵略の手を伸ばしていきました。モーセの時代のエジプト、預言者イザヤがその手から開放されることをやまなかったアッシリア、そしてこのエレミヤの時代に支配者となったバビロニアとイスラエルの、神への背信は王国の分裂と崩壊へとつながっていきました。

 頑固で強情なイスラエルの民にエレミヤは本当の神に立ち返るよう説得しますが、聞かれませんでした。彼の願いはイスラエルの破滅ではなく再建、神の正しい裁きと関係の回復でした。すると、神はエレミヤに陶工の家に行けと命じられました。当時陶工と言えば壺職人が多かったといいます。さまざまなものを保存するのに壺は最も利用された器の一つで、その証拠に古代遺跡から大量の壺が発見され、その壺により時代の特定や生活の様子などが判ってきたと言います。また、それらの陶器を作るろくろも現在のろくろに近く、大きな円盤のろくろの上に小さなろくろを乗せた二重構造のもので足で回しながら作成したのではないかと言われています。そんな日常生活の中で作られ生活必需品として用いられていた陶器はふんだんにあり、壊れたらすぐに取り替えることができたようです。文化財や芸術作品として扱われていたのではないようです。エレミヤを通して語られた神の言葉は、イスラエルの民全体に対する神の憐れみの言葉でした。それは、彼らが神の前に立派な出来上がった器として立つのではなく、未完成の粘土として手の上にあることを願う言葉でした。世の中で、出来損ないと呼ばれている人や自分は負け組と感じている人、失敗や挫折を味わっている人、障害や病の中にある人々、そんな人々こそまったく新しく造りかえられる粘土なのだと神は言われるのです。イエスさまは言われました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)出来上がった器として誇ることなく、神の手に帰ることを望みさえするなら神はその人を作り変えて下さるのです。それは人生におけるセカンドチャンス以上のことです。私たちの人生が神の手によって造りかえられていくという驚くべき体験をしていくことです。パウロは言います。「だから、キリストと結ばれる人は、誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17) 自分の作品としての人生が大切なのではなく、人生そのものが神の手の内にあるかどうか、神の手の中にあることを望み、信頼し従いながら生きることが大切なのです。