2004年2月1日

「実現に至らせるのは神」フィリピ書2:12〜16

 “だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。”

 世の中は多様性の時代と言われます。さまざまな価値観や考え方があり、何をやるにしても単純には決まりません。社会も複雑になり、家族でさえも一致することが困難な時代となりました。教会も御多分に漏れず、一致し宣教にあたるということが難しいことがあります。一般社会であれば、ある一定の共通する目的や価値観により、一致して事にあたることはできると思います。同好会やクラブのように趣味や興味の一致があれば、まとまりもあるというものです。ところで、教会はキリストの体と言われます。同じ、人間の集りである教会の一致点は世の中のそれとは少し違っているようです。使徒パウロは、エペソの教会、コロサイの教会、同労者ピレモン、そしてこのフィリピの教会に獄中にあるにもかかわらず手紙を送っています。それは、さまざまな問題に直面した教会の人々が一つとなり、一致していくことを願ってのことでした。この世で何かを実現するためには、誰かがリーダーあるいは指導者となり事を決めて皆がそれに従うことで一致を見たり、皆で討論し意見を出し合い正しく合理的な結論を得て一致していくのが常です。しかし、教会における一致とは何でしょうか?教会はパウロによれば、キリストの体、花嫁とも表現されています。そこで、彼の願いは、教会が一致すること。人の方法や力による一致ではなく、キリストによる一致です。それは、キリストによる罪の赦しを得た者たちに与えられる一致です。イエスさまによって現された神の愛と恵みによる救いは教会に慰めと聖霊による人の交流、慈しみや憐れみの心を与えてくれます。そこで、パウロは言います。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして欲しい」と。

 教会の働きは人の願いや思いつきによるのではありません。神に信頼し、神と共に一人ひとりが歩む者となることを神は求めておられるのです。働きそのものが目的ではありません。神さまと祈りを通して交流することがなければ私たちは一つとなることはできません。教会はキリストの体であり、全ての信徒、指導者たちは神さまと直接語り聞く手段、「祈り」が与えられているのです。そこで、神さまのみ心、ご計画を知るのは「方法」ではなく神との「関係」によります。キリストの十字架の贖いの下に集い、キリストを見上げ、皆が神との祈りによる関係を大切にし、確信を与えられるまで待つことが最も大切なことです。神はすべての事に主導権を持っておられます。教会が、どれだけ目に見えぬ誠実なる神に信頼することができるかに、教会の働きの全てがかかっています。何を成すかが問題ではありません。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」(2テモテ2:13)とパウロが言うように、この多様化した社会の中で、キリストのように自分の思いを捨てて真実なる神に信頼し従う教会となり、社会とキリストに仕え、神のみ心を実現していくこと、それが私たちの教会の願いです。