2004年1月25日

「求めるのは憐れみ」マタイによる福音書9:9〜13

 “イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」”

 当時のユダヤはローマ帝国の属国でした。当然ユダヤの人々はローマへの重い税金を納めなければなりませんでした。しかし、ローマ市民に委託されたユダヤ人への税金取立ての実務は取り立てられるユダヤ人の中から選ばれていたのです。それは、ユダヤ人の怒りを直接ローマ帝国に向かわせないためでした。ルカによる福音書に記録されたザアカイの話にあるように、徴税人たちはその立場を利用し、理不尽で不当な取立てを行っていたようです。今でいう税務署の職員のようなものではなく、人々から恐れられ憎まれるような悪徳金融業者のようなものでした。イエスさまも根はいい人かもしれないマタイに目を向けられたのではなく、罪の真っ只中にあるその人に目を向けられたのです。マタイは収税所でいつものように不当な取立ての真っ最中でした。その人にイエスさまは近づき、言われたのです。「わたしに従いなさい」と。イエスさまはマタイの罪の病を示されたのです。そして、彼は職を捨ててイエスさまに素直に従いました。普通、私たちは悪いと分かってことは隠れてやるものですが、マタイは堂々と昼日中無自覚に不正なことをしていたのです。

 罪人とは「不道徳な香りを放つ者」という意味です。表は立派そうに見えても、嫌な匂いがする人という意味です。イエスさまが最も嫌われた偽善の匂いです。しかし、イエスさまが非難されたのは不思議なことに徴税人や娼婦たちといった罪人たちではなく、ファリサイ人や律法学者、祭司長たちでした。一般的に私たちは、犯罪者や悪人を非難しても「素直ではない人、不正直な人、ねたむ人、ひがみっぽい人など」は許し、大目に見る傾向があります。ところが、イエスさまは明らかに罪人と判る人の方を許し、イエスさまの業や言葉を受け入れない、素直ではなく頑固なファリサイ人たちの方を非難されたのです。イエスは「清いと思っているあなたから罪という臭い匂いがしてくる。あなたこそ本当に病んでいるのだ。」とファリサイ人たちにおっしゃりたかったに違いないのです。イエスさまが言われる丈夫な人とは、本当に健康な人、すなわち「神が癒した人」のことです。罪人たちは、神の憐れみによらなければ清くなることができませんでした。そして、イエスさまの憐れみを受け入れ赦されたのです。しかし、「人の力で清くなった者」ファリサイ人たちは病んでいること、自分たちが不健康であることに気づかずそれを認めようとはしない頑固な人々でした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との言葉は、そんな素直ではない頑固なファリサイ人のような私たちを救いに招くために語られたイエスさまの憐れみの言葉です。