2004年1月18日

「天国のすてきな報い」 マタイによる福音書20:1〜16

 イエス様のたとえ話しを正しく理解するために必要な二つのことがあります。一つは、直前の言葉が大切ということです。直前の言葉を読むと、どういう訳でどういう事情があってそういうたとえ話しをイエス様が用いられたのかということが解るからです。そこで、直前の言葉を読んでみると、弟子達のイエス様に従って来たことに対する報いについての質問が書かれています。イエス様の答えは、二つの約束についてでした。一つは、「治められる側から治める側へ」「裁かれる側から裁く側へ」移され、永遠の命が約束されているということでした。弟子達はその意味が解らず物足りなそうな顔をしていたに違いありません。そして、イエス様は言われました。「しかし、先にいる  多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 それは当時の諺でした。その日には人生の大どんでん返しが起こるのだという意味です。さて、聖書は歴史書ですからそれを理解するためには専門的に学んだ人の知識が必要です。当時のイスラエルのぶどう園は、日本で見られるものとは違います。棚から実が下がっているのではなく、ぶどうの実は地を這っているのです。それに、収穫の季節は8月、9月という灼熱の時期なのです。棚の下ならまだしも、フライパンを火にかけてその上で収穫をするような、重労働中の重労働だったのです。しかも9月の終わりには梅雨が待っていました。それまでに収穫しなければならないのです。だから労働者が必要だったのです。そこで、たとえ話しが始まります。主人は一人一日一万円の約束で労働者をぶどう園に送りました。夜明け、朝9時、12時、3時、そして夕方5時頃にも主人は広場に行ってみました。すると、誰も雇ってくれなくて立っていた人がいて、そのたちにも主人はぶどう園に行って働くように言いました。

 そこで第二のイエス様のたとえ話しを理解するために必要なことは、イエス様のお話しの矛盾に気付くことです。そこがイエス様のメッセージの大切なところなのです。3時頃はまだしも、5時頃になって私達は人を雇うでしょうか?最後まで残っていた役に立たないような人、それに一日の仕事が終わろうとする頃雇うでしょうか?ところがイエス様は、天のお父様はそんな人にさえ声を掛けてくださると言うのです。そして、賃金の支払いの仕方が矛盾しています。普通、朝一番から働き通しだった人から始め、最後の者に支払うものです。しかし、イエス様のたとえは逆でした。主人はほとんど働く時間もなかった最後に来た人から、しかも最初に来た人と同じ1万円を支払ったのです。納得できない話しです。弟子達にとっての天国における報いは、多く働いた者、立派に生きた者から順番にそして多く与えられるはずでした。しかし、イエス様は天のお父様は、小さな働きしかできなかった者、弱い者、役に立たなかった者、箸にも棒にもかからない人から、しかし招きに応えた者から順番に呼ばれ、真っ先に報いを与えてくださるのだとおっしゃるのです。それが天国だと言うのです。恵みの時代の信仰生活は、愛と喜びが動機、クリスチャンとしての責任意識が動機です。天国で私たちが受ける恵みは全員が同じです。天のお父様に不正はありません。天のお父様の招きを受け入れる者は「治められる側から治める側へ」「裁かれる側から裁く側へ」移され、一様に永遠の命が約束されている、そんな大どんでん返しが起こるというのです。そんなすてきな天のお父様の恵みの赦しを受けて喜んで皆で励まし合い助け合って生きて参りましょう。