2004年1月4日

「すべての人を照らす光」 ヨハネ福音書1章1〜9節

 山道を車でとおると、よく道路の両側に反射板がついています。ある時、夜の山道を車で通っていたら、妻が反射板を見て、「こんなところによく電気がきているわね」というので、これは反射して輝いているのだと説明しました。しかし妻に言われて気づいたのですが、この反射板はヘッドライトという光を受けて輝き、私たちに道を教えてくれているのです。私たちも、世の光であるイエスさまから、光を頂いています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ1:9)」まことの光であるイエスさまは、一部の立派な人だけを照らすのではなく、すべての人、私たち一人一人を照らして下さっています。ですから、私たち自身もまた反射板のように、世の光として、神様から与えられた恵みを周りの人々に示していくことが出来るのだと気づかされました。

 ヨハネ9:1以下に「生まれつきの盲人をいやす」記事があります。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。」という弟子の質問に、イエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のみ業がこの人に現れるためである。」といわれて、この盲人の目を癒されました。目が癒された人は、「あの方が神のもとから来られたのでなかったら、何もおできにならなかったはずです。」とイエスさまのことを証したのでした。「神のみ業がこの人に現れるためである」と言われたイエスさまのことばどおり盲人の目は癒され、神さまから文字通り光を与えられて、さらにその光を他の人たちにも証したのです。

 私と妻は年末帰省先の小倉から、小田先生のお父様が入院されている熊本を訪ねてきました。ご家族が揃っておられた病室で、お父様の金光さんにお会いし、青葉教会の皆さんといつもお祈りをしていることをお伝えし、小田先生ご一家と讃美歌を歌いました。お父様はしっかり目を開け、大きく息をしながら、その讃美に反応しておられました。讃美歌のあと小田先生がお祈りをし、私も続けてお祈りをさせて頂きました。私のお祈りが終わるか終わらないとき、まさにお父様は目を閉じて、天に召されていきました。ご家族皆さんに囲まれ、讃美と祈りの中で、平安のうちに天に召されたこと、神さまが最善の「時」を備えられたのだと震える思いでした。伝道の書3章に「すべての業には時がある。神のなさることは皆そのときにかなって美しい」というみ言葉があります。ずっと病と闘ってこられた金光さんの召天という「時」も神さまが確実に計画されていたことなのだと本当に主に感謝でした。

 小田先生のお父様は病気で倒れられる前はお母様に優しい言葉ひとつかけたことがない方だったそうです。しかし、クリスチャンになられてからのお父様は、お母様にも「いろいろ有難う」と今までかけたこともないような言葉をかけられ、苦しい闘病生活にありながらも神さまとともに歩んでこられました。お父様はそれまでキリスト教と無縁だった、神社を中心とした町に教会を建て、教会を中心とした街づくりをしたいと、周囲の方に語っておられたようです。まさに、お父様は神様の光に照らされてご自分も「世の光として」周囲の方々に神さまを証しし、大きな影響を与えてこられたと思います。「神のみ業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:3)まさに小田牧師のお父様をとおして神さまはみ業を現されました。

 新しい年2004年、私たちも神さまと共にあることを感謝し、照らされ輝き、「世の光」として歩んでまいりたいと思います。