2004年1月1日

「命の水」 ヨハネの黙示録22:16〜21

 1年の計は元旦にあり、つまり元旦は1年の始まりです。始まりには終わりがあります。そして、すべての創造主である神は、永遠の時間を支配なされています。神の業は奥深く、終わりには実は始まりがセットされていることを示しています。ここに紙テープを巻いたものがあるとして、これからテープを少し引き出しハサミを入れてみましょう。ハサミがテープを切り離すことは時間を区切っていく神様の介入に似ていますが、一つの神様の介入は、2つの切り口を作り出します。つまり、一つのテープ片の終わりと、もう一つのテープ片の始まりです。

 始まりの時に最後を見つめることが大切であるように思います。最後は終ることではありません。英語のENDの中には目標の意味もあります。私たちの最終目標なのです。本日の聖書の箇所は、この意味で聖書の最後の箇所を取り上げました。つまり、始まりをスタートするに当たって、私たちのEND、最終目標を示すみ言葉に共に心開きたかったからです。
 ヨハネの黙示録は、全体としては読み解くのが難しいですが、最後のこの部分は、明確にイエスさまの熱烈な招きの御言葉に満ちています。

 「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証した。」 イエスさまご自身が、ヨハネが書いた黙示録の著者は私本人であることを証されています。

 「霊と花嫁(つまり教会)とが言う。「来てください。」渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」 イエスさまは招きます。誰でもよいから来なさい。そうすれば、命の水がただで受け取れると呼びかけます。命の水が欲しい者は、ただで受けなさい。という言葉ほど、救い、つまり永遠の命について端的に言い表している福音はありません。どんな状態でも、どんな人生を過ごしてきたかも問わず、すべての人に開かれ、すべての人が招かれているのです。過去に人を傷つけたとしても、重荷を負うていても、長い病気を患っていても、何をする気力もわかなかったとしても、渇いている者は、だれでも命を水を受けることができるのです。

 「しかり、私はすぐに来る」 22章で3度目のイエスさまの宣言です。そのとおり、わたしは確かに戻ってくる、という約束です。だから私たちも主が戻ってこられることを願わずにはいられません。アーメン、主イエスよ、来てください。

 [主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように] これは黙示録最後だけでなく、聖書全体の最後の言葉です。神の恵みのすばらしさを表しています。神の一方的な愛です。そしてイエスさまが戻ってきてくださることも主の一方的な恵みです。聖書のENDは、恵みのシャワーの中に私たちが、それも誰一人として例外なく、その中にいることが、示されているのです。これが最終目標なのです。

 そして、この最終目標を期待しつつ、私たちの1年がスタートできるのです。私という個人とイエスさまとの1対1の関係をまず中心に据え、豊かな恵みに支えられていることに、気付いていく、感じていく、知っていく日々を期待と勇気を持って共に歩んでいきたいと思います。