2003年12月28日

「祈りについて」 ルカによる福音書22:39〜44

 青葉教会に初めて来たときに、カルチャーショックを受けました。それは、「無理しなくてもいいんだ」ということを実践している教会だったからです。しかし、そういう無理をしない教会で、小田先生だけは無理をなさっていたような気がします。その小田先生の病気のニュースが伝わり、教会員、いや教会員だけでなく多くの人々が小田先生の回復を祈りました。そして、その祈りがかなえられて、小田先生は回復されました。

 私たちは一般的に「祈りがかなえられた。」「その祈りも虚しく・・」というような言い方をよくしますが、祈りがかなえられるということは、どういうことなのでしょうか。

病気が治れば祈りがかなえられたということなのでしょうか、それならば、祈りのかなえられたクリスチャンは、いつまでも長生きをして、祈りがかなえられなかった人は、残念な結果に・・・ということになってしまいます。

 私たちの祈りがかなえられるということは、どんな状況になっても、平安が与えられると言うことなのではないでしょうか。「たとえ病は治っても、また再発するかもしれない、お金はたまっても、盗まれるかもしれない。事故がおきるかもしれない。火災にあうかもしれない。」どんなに恵まれても、そうした不安があれば一番辛いことだと思います。逆に、どんなに辛いと思われる病でも、その中にあって平安が与えられれば、その人が実は一番シアワセなのではないでしょうか。祈りがかなえられるということは、どのような状況にあっても、平安が与えられると言うことなのです。

 私は、初めて教会に来た頃、大人の人のなめらかな祈りにあこがれました。自分もそのように祈りたいと願いました。しかし、なめらかな祈りがすべてなのではありません。それは逆にいつか、心のこもらない祈りになる可能性もあります。ルカ22章44節に「いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」とあります。

 私たちは汗が血の滴るように祈ったことがあるでしょうか。私たちの切なる願いをするとき、それは単になめらかな祈りではなく、汗が血の滴るように落ちる祈りが必要なのであります。私たちが心の底からこみあげる、そのような祈りを捧げたときに、神様は、今一番必要なものを与えてくださるのです。

 それは、病の癒しであるかもしれません、新しい教会堂であるかもしれません、暖かい家族の愛かもしれません、夫婦の和解かもしれません、素晴らしいパートナーであるかもしれません、仕事の充実かもしれません、職場での人間関係の改善かもしれません。しかし、何よりも勝ってそこには、今だかつて味わったことのない神にある平安が与えられるのです。
 神様は、必ず私たちの祈りに応えて下さる。これは、間違いのない事実であります。