2003年12月21日

「神はそのひとり子を」 ヨハネの福音書3章16節

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 クリスマスは出会いの時、神の愛との出会いの奇跡であると思います。身の回りのクリスチャンの人たちに「なぜクリスチャンになったの」と聞くと、さまざまな答えが返ってきます。しかし、ほとんどの人に共通することは、自分がクリスチャンになる前に自分の身近にクリスチャンの人がいたということです。ちなみに、私がクリスチャンになったのは単純に言えば、妻がクリスチャンだったからです。不思議なことに、クリスチャンになる前の私は、自分の方が妻よりよほどクリスチャンのように正しい人間だと思っていました。自分の力で努力して何でも乗り越えて行く、辛いことにも耐えて自分の理想の実現に取り組んで行く。それが、人間の価値だと思っていたのです。少なくとも行いにおいては、クリスチャンである妻より、自分は上だとうぬぼれていたのです。しかし、私は妻の聖書に向かう姿、祈る姿に、自分にないものを感じるようになっていました。諺に「満足するための秘訣それは、人生は、正しさに生きることではなく、恵みであることを知ること。」生きているのではなく、生かされていることに気づくことが満ち足りた人生を歩むための秘訣だと言うのです。

 私の実家では4年前からクリスチャンでもないのに、大きなもみの木を立てて290個のライトを飾り、いくつかのリースにも200個以上のイルミネーションを付けてお祝いをするようになったそうです。田舎なので評判になったようです。しかし、昨年からその光が灯されることはなくなりました。父が大病をし、それどころではなくなったからです。もし、家族が伝えられたクリスマスの本当の意味を心で信じ、イエスさまの福音を受け入れることができるなら、そのような不幸とも思える父の病気の最中にあったとしてももみの木を掲げることができたと思うのです。しかし、嬉しいことに家族の中で救いから最も遠いと思っていた父が昨年、イエスさまを自分自身の救い主と信じ、洗礼を受けることができたのです。今や、父は死を前にしながら、「わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる」というイエスさまの約束に生かされています。不幸の極みとも言える死の床で、死を恐れることなく与えられた命をせい一杯生きています。

 イエスさまは、私たちの罪の保証人となるために生まれてくださいました。ただの保証人ではなく、連帯保証人です。広辞苑によれ【連帯保証債務】とは、保証人が主たる債務者と連帯して履行する義務を負う保証債務を言い、普通の保証人と異なって連帯保証人は催告・検索の抗弁権を持たないというのです。連帯保証人は債務者ではないにも関わらず、返済に関して何の言い訳もできないというのです。神は、人となり、私たちの払い切れない罪を身代わりとなって支払ってくださったのです。神ご自身が罪なる私たちと連帯してくだっさった。それが福音です。クリスマスの今日、イエスさまのご降誕の物語を聞いたあなたが、私の父のようにたとえ死に瀕しても平安に満たされるキリストと出会い、キリストを信じる者となっていただきたいのです。