2003年12月14日

「あなたの言葉で」ヨハネの福音書1:1〜18

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 柏木哲夫先生の新しい本「生きていく力」を読んで、人の命と心の不思議さを考えさせられました。「生きる力」は生命であり、「生きていく力」はいのちなのだと先生は言われます。読んでいて、私たちが生きていくために、生きていく力を持つためには、内側から支えてくれる何かが私たちには必要なのだと思わされました。柏木先生は臨床経験から、「この先生は私のことをわかってくれようとしている。」と相手が感じてくれた(「わかってくれた」からではなく)時から何かが変わり始めていくと言っておられます。人はうわべではなく内なるものに触れ合うことによってしか互いに変わることはできないのかもしれません。末期医療、ホスピスでの最も大切な働きの一つに、スピリチュアル・ケア、(心、と言うよりもっと深い、魂とでもいうもののケア)があると言われます。生きていく人を支えているものは自分自身の存在理由であり、価値観だと言えます。しかし、死を目前にしたとき、その意味を喪失してしまったり、価値観の間違いに気づいてしまったとき、人はどのようにして生きていく力を発揮することができるでしょうか?生命には医学が目に見える形で手を差し伸べることができます。しかし、いのちの危機には何をもって私たちは臨むことができるのでしょうか?

 「初めに言があった」とヨハネは福音書を語り始めます。そして、「言の内に命があった」と言うのです。今、クリスマスは世界中で祝われる誰もが知っている行事のうちの一つです。しかし、多くの人たちがクリスマスに起きた出来事の本当の意味を知らないで祝っています。クリスマスはイエスさまの誕生をお祝いする日であることは知られてきました。しかし、その人が誰であり、自分自身とどのような関係があるのかについて、人は伝えられない限り、その本当の意味を知ることはできません。2500人以上もの人を看取ってこられた柏木先生が、その看取りから学んだことの一つに「生の延長線上に死があるのではなく、私たちは日々、死を背負って生きているのだ。」ということがありました。永遠に生きるかのように暮らしている私たちには確実に死が訪れます。思いもよらない出来事の中で、私たちは死が隣合わせに存在することを知ることがあります。自分の生きていることの意味が問われ、自分の持っている価値観が本当に間違っていないかが問われる日が必ずやってくるのです。神はそんな私たちに命の言、すなわちイエスさまを与えてくださいました。それは、私たちが真に生きるようになるためです。

 ヨハネは続けます。「言は人となって、私たちの間に住まわれた。」私たちが、たとえどのような出来事に遭遇しようとも、どれほど過酷な試練に直面しようとも、神が私たちの内に住んでくださるというこの事実が、私たちを試練に耐ええる者とし、全てのことを益となしていくのです。「暗闇は光を理解しなかった。」私たちの、神を知らない罪という暗闇が、私たちを覆ってしまう前に、神の救いの訪れ、イエスさまを心にお迎えしていきたいものです。